外伝その6 キックボクシングのルーツ

かつてこの日本において、キックボクシングが毎週ゴールデンタイムで地上波レギュラー放送されていた時代がありました。1968年から1979年の19:00〜19:30にTBSで放映されていたYKKアワーキックボクシング中継は20%近くの視聴率を叩き出し、「キックの鬼」と呼ばれたエースの沢村忠はその年三冠王を獲得した王貞治を抑えて日本プロスポーツ大賞を獲得するほどの国民的大スターだったのです。
ところでこの「キックボクシング」という格闘技、ボクシングなどと同じように古くから世界中で定着している当たり前の格闘技のように思っている方も多いかと思いますが(実は筆者もそうでした)そうではありません。野口修という天才プロモーターが発明した日本発祥の格闘技なのです。
野口はもともとはボクシングのプロモーターでした。キックボクシングが地上波放映される以前の日本はといえばボクシング人気の全盛期であり、日本人が挑戦する世界王座戦などといえば国民的行事と言ってもいいくらいのビッグイベントで、ビッグマネーが動いておりました。野口はその大金を巡って魑魅魍魎のごとく跋扈する興行師の一人だったのです。野口はいくつかの世界戦を手掛けて大金を手にすることに成功しますが、いかんせん興行界とは裏稼業人と水モノの世界。野口は色々なトラブルに見舞われてボクシングの世界からは手を引かざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。そこで起死回生をはかって打ったのが、タイ式ボクシング・通称ムエタイvs空手の異種格闘技戦興行だったのです。
野口はボクシングのプロモーター時代にタイに広い人脈を作り上げており、その縁でムエタイという格闘技に出会いました。これを日本に持ち込んで興行を独占すればきっと大人気を博すに違いない!そう考えた野口はムエタイを日本に輸入しようとしたものの、タイ人をそのまま連れてきて見ず知らずの格闘技興行を打ったところで誰も見には来ないでしょう。そこで野口はタイ人のムエタイ戦士と日本人の空手家を戦わせることを思いついたのです。
とは言ったものの、ここでまた一つの問題が出てきます。当時の日本の空手は寸止め空手が主流であり、現在で言うところのいわゆるフルコンタクト空手は大山倍達の極真空手と山田辰雄の日本拳法空手道くらいしかありません。そこで野口はこの2人にムエタイvs空手の興行話を持ち掛け、のちのキックボクシングと名付けられることになる新しい立ち技打撃格闘技を作ろうと交渉します。大山も山田もこの話に大乗り気で、門下の何人かを実際にタイに送り込んでプレ大会を行うことになりました。野口の発案と交渉によりムエタイと極真空手、日本拳法空手道をうまく融合させたルールで行われたこの大会の結果は上々で、あとは本格的に日本において正式興行を打つだけというところまで来たのですが、結局のところ誰が主導権を握るのかということで決裂してしまいます。
野口は困り果ててしまいました。なにしろ野口は日本での第一回キックボクシング興行のためにすでにタイ人ムエタイ選手を来日させており、チケットも売り裁いてしまっているのです・・・もしこの興行でコケてしまったら自分は二度と格闘技界でのし上がることが出来ない! そこで焦った野口が目を付けたのが、極真空手でも日本拳法空手道でも無い、日本大学空手道部所属の沢村忠だったのです。大山とも山田とも決別した今となっては、当時はまだ無名に近かった沢村をエースに仕立てるしか無かったのです。

さすがに天才プロモーターの野口修が目を付けただけあって沢村忠はその実力も内に秘めたるスター性も本物でした。ですが野口が呼んできたムエタイ戦士たちもこれまた本物です。そんな本物同士が本気でぶつかり合えばその結果はどうなるか分かったものではありません。ですがこの新格闘技のおもしろさを世間一般に知らしめるために、第一回興行ではどうしても派手な見栄えのある試合で尚且つ、沢村忠にスッキリ勝ってもらう必要があるのです。そこで野口が取った手段とは? ズバリ言って八百長です。この第一回ムエタイvs空手興行5試合のうち4試合まではガチンコだったものの、メインイベントの沢村戦だけは最初から沢村のKO勝ちが約束されていた八百長試合だったのでした。
結果、このムエタイvs空手は成功裏に終わり、その後は沢村をエースとした「キックボクシング」はジワジワと人気を博して行きます。2年後にはTBSでのレギュラー放映も決まり、沢村は押しも押されぬ国民的スターへの階段を駆け上がって行ったのでした。
さてここで少し話を戻しますが、そもそも最初にムエタイvs空手を立ち上げようとしたときになぜ大山倍達と山田達雄と決別したのか? それには競技の名称問題も絡んでいました。このときにボクシング協会からの了解を取り付けて「キックボクシング」という名前を考案してゴリ押した野口のセンスは素晴らしいと思います。一聞しただけでどのような競技なのかの想像がつくしワールドワイド感があるではありませんか。一方の大山倍達は「キックファイト」という名称にしたかったようですが、野口修は「キックボクシング」という名称にこだわり両者の間にギクシャク感が漂い始めます。こうした双方の不信感に加えてギャラ分配の問題なども発生し、両者は袂を別つことになってしまったのです。
山田辰雄と決別した決定的理由についてなのですが・・・これは野口が八百長をけしかけたことに山田が激怒絶縁したのというのが定説となっております。これについては山田の言い分の方がもっともかとは思いますが、「興行」として考えた場合にはそれは正しい判断では無かったと歴史が証明しています。なぜキックボクシングが爆発的人気を博したのかと言えば、絶対エースの沢村忠が真空飛び膝蹴りという派手な必殺技でKO勝ちを収めるという爽快感が観客を熱狂させたのです。これがもし、本家ムエタイのように組み合っての首相撲が試合時間の大半を占め、なおかつ時間切れ判定が頻発するガチンコ勝負ばかりだったとしたら、間違いなくキックボクシングはマイナー競技のまま埋もれて行ったことでしょう。これまたその後の歴史が証明していることでもあります。
後にK−1を立ち上げて格闘技界に一大旋風を巻き起こした正道会館館長の石井和義氏は
「あれ(ムエタイvs空手)がなければ今の日本格闘技界はなかった」
と語っておりますが、なるほど確かにその通りだなと思うところです。とにかく筆者的には「キックボクシング」という競技名があまりにも普遍的当たり前すぎるが故に、それをだれか一個人が考案したものとは思えないのが一番凄いところだと思っております。

さてその後のキックボクシング界と沢村忠について簡単に触れますと、沢村は毎週のようにタイ人を相手に真空飛び膝蹴りでKO試合を連発し、あれよあれよと国民的スターになりました。キックボクシングの試合の合間を縫ってドラマや映画にも出演し、本人がまだ現役なのに沢村忠を主人公とした「キックの鬼」がアニメ化され、なんと!その主題歌を歌っているのが沢村忠本人だというのだから凄いものですよ。
そんな金になる「キックボクシング」には当然のごとく得体の知れない裏社会の連中が群がってきます。野口・沢村陣営のほかにも次々とキックボクシング団体が立ち上がり、もともとTBSのみで中継していたキックボクシングはNET(現テレビ朝日)と日本テレビでも放映されることになったのです。
そんな飽和他団体状態に陥ったキックボクシングが飽きられて来るのもこれまた当然のこと。いよいよ体力的に限界が訪れた沢村忠が1977年に引退すると、キックボクシングという競技はまるで潮が引いていくように世間一般の目から消えて行ったのです。

令和の現代になって筆者はアウトサイダーだのRIZINだの朝倉未来だのがワチャワチャしてるのを見て、

「今更総合格闘技とか言ってもねえ・・・今から10年くらい前にプライドだのK-1だの猪木祭りだのがワチャワチャしていたけれど、歴史は繰り返すものなんだなあ。」

みたいなことを思っておりました。
ですがこの沢村忠とキックボクシングのことを調べてみて、それこそ20年くらい前には筆者のごとく青二才が熱く盛り上がっているのを見て、

「今更K−1とかなんとか言ってもねえ・・・今から30年くらい前にキックボクシングだの沢村忠だのがワチャワチャしていたけれど、歴史は繰り返すものなんだなあ。」

みたいに思っていた人もいたんだろうなあと、ちょっと恥ずかしくなりました。

そうそう最後に一つ、大事なことを書き忘れておりました。それは沢村忠の本当の実力と人柄についてです。筆者の調べる限りでは沢村忠という人物はとにかくストイックな人格者で、キックボクシングの実力も本物だったことは間違いないようです。
沢村はただその生真面目な性格で、キックボクシング界のために八百長試合で派手なKO勝ちを続けるという自分に課せられた使命を全うし続けていたのでしょう。八百長とは言え相手のガチなキックやパンチを全く食らわない訳には行かないのに、毎週のように全国を飛び回って観客を前にしての試合を行っていた沢村忠は、やはりキックの鬼と呼ぶにふさわしい猛者だったことは間違いありません。
そんな沢村忠ですが、自身は30歳頃には引退したかったのに周囲の事情により引退をズルズルと引き延ばされてしまいます。自身の結婚という人生最高と言ってもいい晴れ舞台についても人気に差し障るからと極秘裏に行うことを強要され、沢村は心身ともにキックの鬼を演じる限界に達してしまったのです。
沢村がようやくキックの鬼という重圧から解放されたのは34歳のときでした。いつものようにタイトルマッチを終えたある日のこと。沢村忠はリングを降りるやそのままスーっと行方をくらましてしまったのでした。

参考文献:

沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝/細田昌志

真空飛び膝蹴りの真実"キックの鬼"沢村忠伝説/加部究


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