力道山vs木村政彦のシュートマッチ 1954年12月22日

筆者と同じく、アントニオ猪木、ジャイアント馬場以降の時代にプロレスの世界に足を踏み入れたファンにとっての、この伝説の一戦に対する認識とはどのようなものでしょう?
筆者的には、もともと力道山率いる日本プロレスと木村率いるプロ柔道団との間に興行戦争が没発。やがてジリ貧の木村サイドが日本プロレスに吸収されるような形で、力道山との一騎打ちが実現。当初は3本勝負で力道山と木村が一本ずつ取って最終戦は引き分け、あとは力道山と木村の抗争が始まるという予定だったのに、何故か突如力道山がブック破りをして一方的に木村をボコる不穏試合となった。その真相は不明・・・みたいな感じに思っておりました。
さてその後、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでみたところによれば、大筋では筆者の認識で合っていたのですが、一つだけ物凄い大誤解をしていることがありました。その大誤解とは、木村政彦とは、アタシが思っていた想像していた以上にトンでもないケタ違いな強さの化け物だったということです。

そもそもなぜこの一戦が実現したのかと言えば、日本プロレスで力道山・木村政彦vsシャープ兄弟の14連戦というシリーズが開催されるにおいて、その殆どの試合で木村がジャブ(負け役)を請け負うことになったことに対する木村の不満が発端でした。でもそれは仕方の無いことです。この興行はもともと力道山が企画したものであり、その14連戦の興行先の殆どが、力道山の息のかかったスジ者プロモーター主催だったのですから・・・
自らを必死に売り込む営業活動の結果、たくさんのタニマチと地方のスジ者プロモーターの支持を得た力道山。一方、ただひたすら強さのみを追い求めた鬼の柔道家は、後援者やスポンサーと言ったモノを殆ど持っていなかったのです。

力道山の発案で、アメリカにおいて大人気のシャープ兄弟を日本に呼ぼうという話になった当時は、まだ力道山の日本プロレスどころか、プロレスそのものの人気や知名度が未知数の状態でした。というか、このシャープ兄弟を呼ぶことにより、日本においてプロレスという娯楽を広めようという段階だったのです。そんな実験的大バクチを打つにおいて、シャープ兄弟を迎え撃つのが力道山だけでは今一つ話題性に乏しいということで、当時、かつて日本柔道界のスーパースターでありながら、現在はプロレスラーとして新たな道を模索している木村政彦に声をかけたというのがこの興行の背景でした。
シャープ兄弟との14連戦は興行的には大成功に終わりました。結果、順調にスターへの階段を駆け上がって行った力道山に対し、もともと格闘家としては明らかに自分より格下の存在である力道山の引き立て役に終わらされた木村は多いに不満でした。そこで木村は力道山に直談判し、だったら改めて1勝1敗1引き分けの3本勝負を行って木村の名誉を回復しようということで実現したのがこの昭和の巌流島対決と呼ばれた力道山vs木村政彦の一戦だったのですが、その結果は広く知られているとおりです。

この試合に臨み、力道山はハナからブックを破って木村を叩き潰すつもりでトレーニングを積み、決死の覚悟を決めておりました。一方の木村政彦はとうの昔に全盛期を過ぎていたうえに、弟分の大山倍達らから、力道山は必ずブック破りをしてくるから気をつけろ!とさんざん言われていたにも関わらず、ロクな稽古もせずに試合前日にもグテングテンに酒を飲んでいたそうな。
なぜ木村は力道山がブック破りを仕掛けて来る可能性があると知っていたにも関わらずこのような態度を取っていたのか? それは、たとえ自分がそんな状態であったとしても、力道山を返り討ちにする自信があったからとのことでした。その木村の伝説的な強さについては「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでいただけたらと思いますが、実際に木村の実績を見てみると、木村がその程度の油断をしても仕方ないほどに、木村の強さとは別格のケタ違いだったのです。
だが結果としては、そもそも木村はこの試合を完全なプロレスの試合だと思って臨んでいたところに万が一のブック破りが勃発してしまい、一応木村もそうなることも想定はしていたものの、力道山が思いの他に強かったので、返り討ちにすることが出来なかったというのがこの不穏試合の真相です。

この試合の経過については、木村の蹴りがたまたま急所に入ったとき、力道山に何かのスイッチが入ってしまって暴走モードになったというのが定説のように言われておりますが、現実は違ったようです。その疑惑の急所蹴りが入る前にすでに、力道山は木村の顔面にブック破りのガチストレートを叩き込んでおり、その時点でもう勝負あった状態だったのです。

そもそも悪いのはブック破りをした力道山なのか? そんな勝負の場において油断しきっていた木村政彦が情けなかったのか? 我々ごとき凡人の素人にその判断を下すことはできません・・・
ただ一つ言えることは、この一戦によって力道山の名声はハネ上がり、日本柔道界不出生の大英雄の名は、その歴史から抹殺されてしまったということです・・・

  


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