第1話 プロレスの黎明期

★序章 筆者とプロレス

筆者は元・プロレスオタクだったりします。
筆者は小学生頃からプロレス好きな兄の影響を受け、チラホラとプロレスを見たり聞いたりしておりました。また、筆者が小学生の頃は学校にて、フツーにクラスのみんながプロレスの話題で盛りあがっておりましたし、プロレスワザのかけあいなどの風景も日常的に見られておりましたので、筆者もそこそこにはプロレスに対する興味を持っておりました。
そんな筆者が本格的にプロレスにのめりこんで行ったのは社会人になってから・・・総合格闘技の先駆け的存在であるUWF系団体が全盛を誇っていた1990年頃からのことでしょうか。「地上最強の男は誰なのか?」筆者のそんな純粋な疑問と夢の答えに限りなく近づいてくれるのではないか? UWF系団体にはそんな幻想をもたらせてくれるものがあったのです。
筆者は旧UWF系団体・リングス、UWFインターナショナル、パンクラスのVTRを貪るように見続け、時には会場にも足を運び、やがてUFC、K−1、プライドが登場し、そして衰退して行く様をリアルタイムで追いかけ見届けることとなりました。
現在の筆者はプロレスオタクではありません。何故なら、「地上最強の男は誰なのか?」という疑問に一つの決着がついたからと言えるでしょう。その結論が出てからは、筆者は急速にプロレス、格闘技への興味を失うこととなりました。
筆者がプオタになってから、地上最強の男とは誰なのか?という問いの答えが出るまでには、実に10年近い歳月を要した訳ではありますが、この10年と言う期間は伊達や酔狂での10年ではありません。

「ごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いのか決めたらいいんや。」

とは前田日明のセリフですが、そんな簡単に最強の男が決まるようなら誰も苦労はしません。世界最強の男が決まるまでには、やはり筆者がプロレスを追い続けた10年間・・・いや力道山が日本プロレスで旺盛を誇った頃まで遡らなくてはいけないほどの長い時間が必要だったのです。
最強の男は誰なのか?そんな純粋素朴な疑問からプオタへの道を歩んだ筆者でしたが、その命題を解いていく過程において、プロレスにまつわる実に幅広い壮大なドラマを見て行くこととなりました。人間同士の分裂結合・・・それが主義主張によるものであったり、カネに纏わるものであったり、10年来の師弟関係が一瞬のうちに崩れる様や、それがまた利害一致でくっついて行き、そして離れて行く・・・裏切り、集合離散、合従連衡、栄枯盛衰、まるで史記や戦国の世界です。
そんな大河ドラマのようなプロレスの歴史を自分自身の中でもう一度、しっかり忘れないようまとめてみたというのがこの「大まかな流れが分かるプロレス格闘技伝」です。
力道山が日本プロレスを旗揚げしてからおおよそ50年という長い歳月の中で、どのような人間ドラマがあり、やがて最強の男が決まったのか? 筆者が見てきたプロレスの歴史を楽しんで貰えたらと思います。

なお、この物語は基本的に、最強の男が決まるまでの流れを描くというコンセプトです。それでも2013年現在存在しているプロレス団体の源流については極力遡って解説したいとは思っておりますが、筆者的に最強の男決定に繋がらないと思われる団体の歴史のことは最小限にしか書かないつもりですのでご了承のほどを。

※本物語における最小限のプロレス用語

「プロレス」 とは闘う前から勝敗が決まっているものを言う
「ガチ」 とは本気の戦いのことを言う
「アングル」 とは事前に決められた試合以外の場外ストーリーのことを言う
「ブック」 とはアングルに沿った試合の流れのことを言う
「マッチメーク」 とは対戦カードと勝敗を決めることを言う
「マッチメーカー」 とはマーチメークを考える者を言う

★力道山と二人の弟子たち 1960〜1972頃

ようやくテレビが普及し始めた高度経済成長真っただ中、多くの日本人に勇気と希望を与えてくれた日本プロレスの英雄・力道山。彼には特に目をかけていた二人の弟子がおりました。1人は元巨人軍ピッチャーという肩書に加え、2mを超える長身という恵まれた体を持つジャイアント馬場。もう一人はブラジルのコーヒー畑で拾ってきた雑草、アントニオ猪木。

力道山:
「コイツら二人はきっと将来モノになる! まず馬場の方だがオレの後継者としてエリートコースを歩ませ、大事に育ててやろう。そして猪木の方だが、コイツにはあえて理不尽にキツく当たってやる。そうして馬場の方には王道意識を叩きこみ、猪木には反骨魂を燃やさせる。そうすればこの二人はいいライバル関係となって後のプロレス界を盛り上げてくれるだろうよ。」

やがて力道山が日ごろの素行の悪さが祟って刺殺されてしまうという悲劇に見舞われると、絶大的なカリスマを失った日本プロレスは内部崩壊してしまいます。結果、猪木と馬場の二人がそれぞれ中心となって別々のプロレス団体を設立して独立することになります。
NET(現在のテレビ朝日)をバックにつけた猪木の新日本プロレスと、日本テレビをバックにつけた馬場の全日本プロレス・・・この二つの団体はその後、正に力道山の思惑通りに動いていくことになったのでありました。
また、日本プロレスの派生団体としては、他にも国際プロレスという団体もありましたが、本物語の主旨にはあまり絡んで来ませんし、筆者的にも国際プロレスに関する知識があまりありませんので、説明は割愛します。

★全日本プロレスと新日本プロレスの設立 1972年

馬場は力道山の正当な後継者として、王道路線を受け継いだプロレスを展開していきます。力道山以来の王道路線とは、日本に乗り込んで来た外国人レスラーを、日本人のヒーロー・力道山が空手チョップでバッタバタとなぎ倒して行くというもの。(もっとも力道山の出身地は朝鮮なのですが)馬場は当時アメリカで絶大なる権威を誇っていたプロモーション・NWAと正式に提携し、ハーリー・レイス、ザ・ファンクスなど、NWAに所属する豪華外国人の参戦をウリとして、順調に王道路線を歩んで行くことになりました。

一方、人気外国人のルートを馬場に抑えられてしまった猪木の方は、試合内容そのもので勝負しようという路線を取りました。開幕戦でマイナーなヨーロッパレスラーのカール・ゴッチにあえて負けることによりガチっぽさを演出したのは全日本への対抗意識の表れでしょう。
当時は世界チャンピオンというものの権威がとにかく絶大でしたので、NWAという看板タイトルを抑えられてしまった猪木は興業の目玉を添えるのに苦心します。猪木は仕方なくアメリカのマイナー団体・NWFからベルトを買い取って王者につき、自らが死闘を繰り広げてタイトルを防衛することによりベルトの権威を高めて行くことにしました。
結果から言ってしまえば、このNWFのベルトそのものが興業のウリになったかどうかは微妙なところですが、猪木自身の熱血的なファイトはファンの支持を得て、多くの猪木信者を作り出して行くことになりました。
もっとも実際のところ、新日本プロレスの設立においての一番の功労者が誰だったのかといえば、それは坂口征二だったと断言できます。なぜならこの坂口征二が加入することをによって、新日本プロレスはNET(現在のテレビ朝日)との放映契約を結ぶことが出来たのですから。もしもNETの支持が無かったら、いかに猪木が物凄いファイトを繰り広げようとも、団体の存続は厳しいものだったことでしょう。

そういう事情があったればこそ、猪木は坂口に対しては何処か一歩引いた態度を取っておりました。また、坂口は坂口でNET獲得の功に驕り昂ぶるようなことは無く、自らナンバー2の座に甘んじておりました。新日本プロレスという団体は、この猪木坂口の両輪がしっかりとお互いを抑えあっていたからこそ、その後の成功を収めることが出来たのではないかと思います。


 第2話へ続く
 


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