最終話 その後のプロレス界

★新日本プロレスの身売り 2005年〜

土下座外交のあげくに業績悪化に歯止めをかけることの出来なかった上井氏は、前任の永島氏、初代仕掛け人の新間氏と同じように新日本プロレスを追われることになりました。その後の新日本プロレスには仕掛け人というポジションは存在せず、蝶野正洋を中心としたマッチメーク委員会と、アントニオ猪木による合議制でマッチメークを行うようになりました。更にその後、猪木及び新日本プロレスに対してあれだけドロをかけて出て行った長州力が現場監督として復帰することとになり、ますます新日本プロレスはカオス状態となったのです。
2005年11月、筆頭株主のアントニオ猪木がついに、持ち株全てを5億円でゲームソフト会社のユークスに売却するに至りました。言ってみれば経営難による身売りです。これで新日本プロレスの一つの歴史が幕を閉じたと言えるでしょう。

さて筆者が語れる新日本プロレスの歴史はココまでです。その後のことは正直良く分かりません。何故なら筆者が主な情報源としていた週刊ファイトが2006年9月を最後に休刊してしまったからです。
思えば筆者が何故こうもプロレスの世界に魅せられて行ったのかと言えば、この週刊ファイトの影響が相当にデカいのです。プロレスとは試合観戦のみならず、そのバックグランドストーリーを追っているだけでも十二分に楽しめるジャンルであると教えてくれたのがこの週刊ファイトの故・井上義啓編集長でした。筆者はこの通称I編集長こと井上編集長の確立した「活字プロレス」というジャンルの虜となってしまっていたのです。そんな筆者にとってのプロレス聖書とも言える週刊ファイトが何故休刊してしまったのかと言えば、プロレス人気がガタ落ちとなって専門誌も売れなくなったという実に分かりやすい理由です。なにしろ週刊ゴングもほぼ同時期に休刊に追いやられたのですから、いかにプロレス人気が落ち込んだのかが良くわかるでしょう。

最後に猪木が株を手放した後の新日本プロレスのことを筆者の知る限りの知識で簡単に書いてみます。猪木がタダの人になったとはいえ、それでも新日本プロレスが完全に猪木の影響を脱却するまでにはもう何年かの年月が必要だったようです。ユークス主導の経営になって脱・アントニオ猪木が果たされると新日本プロレスは、棚橋弘至、中邑真輔を主軸に添えた純プロレス路線へとシフトします。それからは長らく低迷期が続いておりましたが、2012年にはユークスからカードゲーム会社のブシロードに親会社が移り、レインメーカーことオカダ・カズチカという新戦力を大抜擢した2013年現在の新日本プロレスは完全に息を吹き返し、安定して武道館クラスをSOLDOUT出来るくらいに人気を博しているしているようですね。
2016年現在においてはプチ・プロレスブームが巻き起こっております。もっともエースは相変わらず棚橋&オカダ・カズチカであり、中邑真輔はWWEに移籍してしまい、マッチメークの行き詰まりが見受けられます。決して予断を許す状況ではありません・・・
また、新日本から手を引いたアントニオ猪木は、何処から金を引っ張ってきたのやら、2007年3月にIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)を旗揚げし、格闘技とプロレスの中間のようだけどUWFとは違うような興行を2ヶ月に1度くらいのペースで開催し、そこそこに成功しているようです。2016年現在においても、相変わらず小川だ藤田だと言っている状況ではありますが・・・もっともそれを言うならノアなんぞは未だに鈴木みのるがエース格というお寒い状況なんですけどね・・・

長らく続く大まかな流れが分かるプロレス・格闘技伝ですが、ついにプロレスの歴史を語るにおける最大最重要団体、新日本プロレス編の幕が下ろされてしまいました。
新日本プロレス以外でマット界において天下を取ったと言える団体は、UWF、UWFインターナショナル、ノア、プライドなど多々あるところです。でもその源流を改めて遡ってみると、そこには全て新日本プロレスの遺伝子が組み込まれていることを思い知らされます。力道山死後の日本におけるプロレスと格闘技の歴史とは、そのまま新日本プロレスの歴史だったと言ってしまっても過言ではないということでしょう。

★プロレスリング・ノアの天下転落 2004年〜2009年

2009年6月14日・・・筆者がテレビを見ていると、衝撃的なニューステロップが流れて来ました。

「プロレスラーの三沢光晴さん、試合中の事故で死去」

ええ〜っ、マジかよ!!! まさかあの三沢さんが・・・小橋の負傷欠場なんかもあって相当な無理をしているっぽいのは小耳に挟んでいたけれど、受け身の天才がこんなことになっちゃうなんて、どんだけコンディション悪化していたんだよ三沢さん!!!
その後発売された別冊宝島のムック本などを読んで分かったことなのですが、当時のノアと三沢さんは、いつこんな事故が起こっても不思議で無いくらいガタガタのボロボロになっていたのでした。
2004年頃からのノアは、新日本プロレスの養分を吸って、マット界の盟主と言ってイイ存在となっておりました。2004年7月、2005年7月には東京ドーム大会も開催し、これからのマット界はノアが取り仕切って行くのかなと、週刊ファイトからの情報が途絶えた筆者は漠然とそんなふうに思っておりました。でもプロレス界の現実はそんなに甘くは無かったのです。
まずノアの繁栄に陰りを差したのは、絶対王者と呼ばれた小橋健太の欠場です。2006年6月、小橋の体から腎臓癌が見つかってしまったのです。幸い癌の摘出は成功してその後の転移も見られず無事に回復はしたのですが、残念ながら今まで通りの激しいプロレスが出来るまでには至りませんでした。

絶対王者を失ったことにより、ノアはマッチメークに苦しみます。いちおうは秋山準という後継者が育っていたものの、小橋に比べれば役不足感は否めません。そこで秋山を中心に、若手との世代間闘争を仕掛けたりもしたのですがそれもパッとせず、ノアの興行成績はジリジリと下がって行きました。
またこれはノアに限った話ではありませんが、そのファイトスタイルが飽きられて行ったという事情もあります。三沢、川田、小橋、田上の作り上げた四天王プロレスは、確かに「プロレス」として一つの完成された形ではあったでしょう。でもその極限までワザを出し尽くすスタイルは、飽和状態の限界に達していたのです。
1つの試合で、これでもかこれでもかとチョップやラリアートを打ち合ったあとにバックドロップ3連発!パワーボム3連発!それをカウント2.9で返す!というのは確かに凄いことだと思います。いかに総合格闘技のヒョードルやクロコップが強いと言っても、このようなマネは到底出来るものではありません。そういう意味において確かに、ノアだけはガチだったのです。
でもこの四天王プロレススタイルは、毎回お互いが全てのワザを出し尽くしてしまうが故に、試合展開がいつも同じになってしまいます。また、選手ごとのスタイルや得意技と言ったものの特徴も出しづらく、第一試合からメインイベントまでみんな同じような展開となってしまいます。これでは観客に飽きられてしまうと新しいことをしようにも、ワザをより鋭角に高いところから落として行くか、あるいは3連発だったのを5連発にするなど、より過激なことをやっていく他はありません。四天王プロレスのスタイルは、もはや限界だったのです。

実のところ、この四天王プロレスを王道プロレスということに難色を示す意見も多かったりします。筆者もどちらかというとその考えです。これは後述するハッスルの試合を見ていて改めて思ったことなのですが、本当の王道プロレスとは、レスラー一人一人が役割と特徴を持っていて、それぞれの見せ場を作るものなのではないかと思います。
昔のプロレスでは、若手はドロップキックを打ってはいけないとかボディースラムは1試合1回までなどという制約がありました。何故そうしていたかと言えば、第一試合から高度で派手なワザが乱発されていたら、後の試合のインパクトが薄れるからという理由です。
また、他のレスラーの得意技を使ってはいけないという不文律もありました。だってもし第一試合からみんなが空手チョップを使っていたら、メインイベントで力道山が空手チョップで外国人をブっ倒すというクライマックスが薄ボケたものになってしまいますよ。

王道プロレスとは、観客がカタルシスを得るための様式美・・・言ってみれば水戸黄門の印籠のようなものであって、終わりの分からないガマン比べを見せられるものでは無いという考えも根強いのです。最初から最後までダラダラとSMショーと言ってもいいようなワザの掛け合いが続くノアの興業は、いつしかノアオタと呼ばれる熱狂信者のみに支えられるという状況になりました。
そんなノアの経営を支えていたのは日本テレビでした。毎週日曜深夜のノアプロレス中継の放映権料がノアの生命線だったのです。でもそのノアプロレス中継も視聴率の不振から、2009年4月の番組改編期に打ち切られることが決定します。

「テレビ中継が打ち切られたらノアはもうおしまいだ・・・」

社長の三沢はそのことを誰よりもよく分かっておりました。
なればこそ、必死にスポンサーを探して西に東に飛び回り、本業のプロレストレーニングなど出来る状況では無くなってしまったのです。でもそうだからと言って、試合で手を抜く訳にはいきません。三沢は最悪のコンディションながらも自らが集客マシーンとなって、前線で過激な試合に臨まざるを得なかったのです。
三沢が試合中の事故で亡くなったのは、日本テレビの中継が打ち切られてから3カ月後のことでした。経営に行き詰り、それでも社長としてエースとして、最後の最後までボロボロの体で戦い続けた三沢さんの死は悲劇としか言いようがありません・・・

さて三沢さん亡き後のノアですが、残念ながらあまり芳しい話は聞こえてきません・・・新日本プロレスでいうところの仕掛け人であるガチドラこと仲田龍と、力道山の息子にして副社長の百田光雄の確執による分裂騒動、サギ師に騙された話、場外乱闘で観客に怪我を負わせて損害賠償請求裁判を起こされるなどなど・・・2013年現在においても団体としては存続しているようですが、数百人規模の興業で細々と食い繋いでいるようです。

★ファイティングオペラ・ハッスル 2004年〜2009年

細かい経緯は筆者にも良くわかりませんが、2004年1月にプライドの母体であるDSEがプロレス部門として立ち上げたのがこのハッスルです。筆者がハッスルに注目しだしたのは2005年11月3日からのことなので、残念ながら初期のことは良くわかりません。
そんな何の気無しに見だしたハッスルでしたが結果的には、筆者が最後に好きになり応援したプロレス団体となりました。
なんでもエンターテイメント性を色濃く打ち出していると評判のハッスルに、歌舞伎役者の和泉元彌とお笑い芸人のレイザーラモン・HGが参戦したとかなんとか。それがなかなか面白かったという評判を聞いて試しに見てみたというのが筆者がハッスルに触れたきっかけです。なるほど確かに、元彌もHGもしっかりプロレスやってるじゃんってかヘタなレスラーの試合より面白いぞ! 筆者は一気にハッスルの虜になってしまいました。
筆者はもう最強幻想という呪縛から解き放たれておりましたし、ミスター高橋本の中身もフツーに受け入れておりましたので、歌舞伎役者やお笑い芸人がリングに上がること自体についての抵抗感は全くありませんでした。とは言ったものの、特にその中身に期待していたって訳ではありません。たんなる興味本位でこの二人の出る試合を見てみただけだったのですが、その試合内容は筆者の予想をイイ意味で大きく裏切ることになったのです。

ハッスルの構成は、まず試合前にスキットと呼ばれるストーリー性を持った煽り映像をオーロラビジョンで流し、その決着をリング上でつける形式となっております。基本はハッスル正規軍vs高田モンスター軍で繰り広げられる「ファイティングオペラ」なのですが、そこに新たに坂田軍団が誕生して天下取り宣言をしてみたり、川田利明と崔領二の個人的な抗争が始まってみたりと次々とドラマが生まれて行きます。そこに派手な舞台や豪華ゲストを呼び込んで興業を盛り上げていくのですが、その完成度はなかなかどうして高かったと思います。
でもそんなハッスルも、舞台装置やゲストに金をかけ過ぎていたために内情は火の車でした。末期は資金不足から大物ゲストを呼べなくなってどんどん興業が貧弱になっていってあえない最後を遂げることになったのです。かくいう筆者にしても、ハッスル最大の功労者と言ってもいいインリン様が、ギャラの未払いを理由にハッスルを去ってからは急激にハッスルに対する興味を失っており、ハッスル崩壊のニュースを聞いたときも、ああそうなんだという感じでしたから。

ハッスルもその他プロレス団体の例に漏れず、通常は収容人員1500人程度の後楽園ホール、あるいは地方会場(と言っても5000人レベルですが)でサーキットを打ち、シリーズの締めを大会場(1万人以上レベル)で行うという興行形態となっておりました。ハッスルは芸能人や他団体の大物レスラーの参戦が大きなウリだったので、そのギャラ経費はなかなかなものだったと思われます。それを後楽園ホールや地方興業でペイするのは苦しかったことでしょう。それでもスポンサーがしっかり付いているうちは良かったのですが、2006年の終わりに親会社のDSEが事実上消滅したことによるスポンサーの激減が、ハッスルに大ダメージを与えることになりました。
ハッスルも資金力が豊富なうちは良かったのですが、金の切れ目が縁の切れ目。みるみると興業の質が落ちて行き、やがて筆者のようなハッスラーにも見放されるに至りました。
2008年5月、ハッスルの象徴と言っても過言では無かったインリン様の離脱を持ってして、ハッスルは終わったと言えるでしょう。

さてハッスルにおけるインリン、和泉元彌、HGといった芸能人の演じるプロレスに対する評価ですが、これは非常に難しいです。
まずはインリンについて。彼女は会場を盛り上げる女子マネージャー、アメリカのWWEで言うところのディーヴァの役割を完璧に果たしていたと思われます。ココぞというときには試合もしっかりしておりましたが、そのプロレスも十二分に及第点に達しておりました。
とは言ったものの、シングルでの試合となるとやはり厳しいですし、激しいアクションによる怪我を負ったこともありました。ディーヴァとしてならともかく、やはり素人をプロレスラーとして成り立たせるのは難しかったようです。
また、インリンの他にも、本場アメリカでディーヴァとして活躍した鈴木浩子、グラビアアイドルの青木裕子など、インリン様の二匹目のどじょうを狙ったディーヴァ候補も登場しましたが、成功したのはインリン様だけだったことも加えておきましょう。(鈴木浩子に関して言えば、適正はあったものの、ハッスル側が使い方を間違ったと思えますが)

次に和泉元彌についてなのですが、彼の唯一の試合、ハッスルマニア2005における鈴木健想(新日本→WJ→WWE)との一戦に関して言えば、素晴らしい試合を見せてくれたと思います。とは言ったものの、それは一試合限定だからこその話であって、連戦したらボロが出てくるのは間違いないでしょう。
また、和泉元彌の他にもカイヤ、クロマティ、海川ひとみ、泰葉などなど様々なレスラー以外の素人がリングインしましたが、プロレスの試合として及第点に達することが出来ていたのは和泉元彌と体操の池谷直樹くらいなものだったと思います。芸人をプロレスの試合に出すこと自体は悪くは無いのですが、プロレス適正を持った芸人を、1試合限りでしか使えないというスタイルには、明るい未来が見えないのです。

最後にHGについてなのですが、これは例外中の例外です。HGはもともとが身長180cmを超える恵まれた体なうえに運動神経抜群で、学生プロレスの経験もあります。もしもHGがお笑い芸人などにならずに新日本プロレスに入門していれば、押しも押されるエースになっていたのではないかと思うくらい、彼のプロレスセンスは光っておりました。でもそんなHGも、そこはやはり本職では無い悲しさ。最後は試合中に大怪我を負って戦線離脱を余儀なくされてしまったのです。

ハッスルは芸能人だけでやっていればイイなどと揶揄されることがよくありました。でもやはり芸能人を主体とする興業は、一時的なカンフル剤にはなりえるものの、連続して使い続けることには無理があるのです。
それならばハッスルは自前でレスラーを擁する必要があるのですが、この点において戦力不足だったことが、ハッスルにとっての痛手でした。
意外に思われるかもしれませんが、実のところハッスルに出場しているレスラーの質は相当に高かったし、プロレス自体もハイレベルでした。アメリカ帰りのTAJIRI、かつては全日本のエース格だった川田利明、元新日Jrのエース大谷晋二郎、実はプロレスのうまい職人の安生洋二、グラン浜田の娘・浜田文子、全女の元エース・アジャコングなどなど。なんと!あのオカダカズチカもグリーンボーイ時代にはハッスル仮面オレンジのリングネームで参戦し、みちのくプロレスの一線級レスラーとルチャっておりました。
このようにハッスルにはしっかりとプロレスの出来る職人が揃っており、ハイレベルな試合をしていたのです。


興業バランスにしてもそれぞれの選手がキッチリ自分だけの見せ場を持っており、その得意技必殺技が出る場面では多いな盛り上がりを見せておりました。
よくハッスルをロクに見ていないアンチハッスルなプロレスオタクが、ハッスルはプロレス自体がショボいみたいなことを言っておりましたが、決してそんなことは無かったのです。
とは言ったものの、ハッスルのレギュラーのプロレス職人達は、一枚看板エースを張れるほどの器ではありません。そこでハッスルとしては、小川直也、元リングスの坂田亘をエース格として扱おうとしたのですが、肝心なこの二人のプロレスがショボかったのは痛かったです。特にハッスルキャプテン・小川のプロレスがヘボかったことが、ハッスルは肝心のプロレスがなっちゃいないというイメージを増幅させたのではないかと思います。

また、いかにプロレス職人が多々揃っていたと言っても、新日本プロレス、ノアといったメジャーに比べれば層の薄さは否めません。川田、安生、TAJIRI、大谷と言ったプロレス名人も、豊富な資金で好敵手をリングに引っ張って来れているうちは巧みな試合を見せてくれました。最盛期にはアメリカWWEの一線級が毎回来日しておりましたし、晩期にも武藤敬司や小島聡、鈴木みのると言った大物が参戦していたくらいですから。
でもそれも資金が無ければ一気に対戦相手がショボくなります。それまでストーリーに絡んでいた大物が招聘出来なくなって、それまでの因縁が尻切れトンボに終わってしまうこともありました。やはりプロレス団体には安定した自前の戦力と資金力が不可欠なのです。

★プロレス界の置き土産

こうして筆者が大好きだったハッスルも終焉となり、ついに筆者はプロレスを見ることが全く無くなってしまいました。その後、筆者に残されたプロレスとの関わりは、新たに発売される暴露本と裏話の発掘だけとなってしまったのです。
これまでの歴史を振り返っても分かるように、とにかくプロレスというジャンルは、バックグランドストーリーだけを追っていても十二分に楽しめるジャンルです。そんなプロレスなればこそ、プロレス関連本は2010年頃までは次々と発売されておりました。
でもそれも2011年頃になると、流石にもうネタ切れなのか、本屋のプロレス本コーナーも申し訳程度の広さとなり、新たなタイトルの本が並ぶのも見かけなくなりました。このままプロレスと格闘技に関する情報に触れない日々が続いていたら、筆者の中に今までに蓄えられたプロレスと格闘技の知識がどんどん逃げて行ってしまうのではないか? そんな思いから自分の見てきた読んできたプロレスと格闘技の歴史をまとめてみようかと思ったのが、本稿を書くきっかけだったのです。

という訳で、この「大まかな流れが分かるプロレス・格闘技伝」については、言ってみれば自分のために書いた物語と言えます。でもこのプロレス・格闘技界の歴史というものは、自分の中だけで完結させるにはあまりにも勿体ないです。団体運営における成功と失敗、集合分裂の様には多くの教訓が含まれますし、単純にドラマとして見ていても、リアルに起こった出来事だけに迫力が違います。
この物語を読んでくれた皆さんに、少しでもプロレス界というものの面白さに触れて頂けたのならこれ幸いに思います。長らくのお付き合い、ありがとうございました。


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