第3話 クーデター事件の余波

★出戻り組の天下 〜UWFとジャパンプロレスの崩壊〜 1986〜1987年頃

その後、UWFには前田と藤原の弟分とも言える高田伸彦が加わり、更にプロレスを捨てた元タイガーマスク・佐山聡、その弟子・山崎一夫が参戦することにより、格闘系プロレスとしての方向性が明確になりました。
こうしてUWFはガチ系プロレスラーの桃源郷になりえるかと思われたのですが、現実はそう甘くはありませんでした。まずは資金面の問題です。やはりテレビ局をバックにつけないでの団体運営は厳しく、UWFは瞬く間に資金難に陥ったのです。順調なうちはイイのですが、苦しくなると色んな不満が次々噴出してしまうというのが人間の集まりというものです。
あくまで格闘「風」プロレスをやりたかった前田達と、正真正銘のガチ格闘技をやりたかった佐山の間で抜き差しならぬ対立が起こり、結果、UWFという団体そのものが崩壊することになってしまったのです。
もっとも前田にしても、佐山の理想論で食っていけるのならば、それはそれで良しと思っていたようです。でも実際は、佐山だけがタイガージム経営による月に2,300万ほどの副収入あり、その他選手はほぼノーギャラ状態だったのですから、両者の考えのミゾが埋まらなかったのも当然と言えるでしょう。佐山の提唱するシューティングをまともにやったら、興業数がガタ減りし、とてもじゃないが収益を確保して食っていくことは不可能だったのです。
こうしてUWFの夢は1年半の短い時間で露と消え去り、佐山を除くUWFのメンバーは、新日本プロレスに出戻ることになったのでありました。一方、佐山は己が理想の格闘技の創造のため、シューティングに戻って行きました。
ちなみにこの時、前田は全日本プロレスにも業務提携打診をしたのですが、それに対してジャイアント馬場は

「前田と高田だけだったら受け入れてやろう。あとはいらん」

と答えたそうな。流石は馬場さん、スター性を見抜く目は確かです。
また馬場さんと言えば、こんな話もあります。専修大学レスリング部に凄い逸材がいる!そんな話を聞いて専修大学に赴いた馬場でしたが、一足違いでその凄い逸材は新日本プロレスに取られてしまったのです。その時馬場がレスリング部の練習風景を眺めてみると、

「おい、あそこに凄いヤツがいるじゃないか! 新日本のヤツらは何処に目をつけているんだ?」

馬場の目に井の一番に映ったのは、後のノアをしょって立つことになる秋山準でした。早速馬場は秋山を直々にスカウトすることにしたのです。また、最初に聞いていた凄い逸材とは中西学のことでした。閑話休題。

こうして新日本プロレスにおいて、出戻りUWF勢vs新日本勢の抗争が始まりました。UWF勢も新日本勢も、その団体設立の経緯からお互いに対する不信感はぬぐえなかったものの、興行的に考えて双方背に腹は代えられない状況です。観客としてもその辺の事情は重々承知しているし、新日本とUWFではプロレススタイルそのものの違いがあることも相まって、両者の抗争はスリリングで手に汗握るものとなったのです。

一方、全日本プロレスとの提携に活路を見出した長州力のジャパンプロレス。天龍源一郎、ジャンボ鶴田らと白熱した抗争を繰り広げ、全日本のリングを多いに盛り上げることになりました。
でもそんなジャパンプロレスも、やはりUWFと同じく最終的には資金繰りの問題によって崩壊することになります。結果、長州力、マサ斉藤、佐々木健介、馳浩などが新日本プロレスに出戻ることになったのです。なお、信義を重んじるジャイアント馬場はこの件について激怒し、後の長州体制の新日本プロレスに対する恨みを抱き続け、決して信用することは無かったのでありました。
さてUWFから1年遅れで出戻った長州ジャパンプロレス勢は、前田日明のUWF勢と手を組んで、依然トップに君臨していたアントニオ猪木に対し、トップの座を明け渡させるべく、世代間闘争を仕掛けます。

前田:
「ごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いか決めればいいんや!」

当時は絶対エース・アントニオ猪木に衰えが見え始めておりました。自らが築いた牙城を必死に守ろうとする猪木と、長州・前田をはじめとしたニューリーダーズとの戦いは、熾烈を極めたものになったのでありました。

★新時代の幕開けと前田日明の追放 1987〜1988年頃

当初は共闘していた前田と長州でしたが、もともとはお互い別々の軍団を率いていたお山の大将同士です。結局、次代エースの座を巡って仲間割れすることになりました。この二人のライバル意識がイイ方向に働けば、最高のアングルとして機能したのでしょうが、残念ながら、前田と長州の遺恨はガチでした。長州力にとっての前田日明とは、次代エースの座を脅かす、本気で消えて欲しい存在だったのです。
また、そこにはアントニオ猪木の思惑も絡んでおりました。当時の猪木は、なんとかエースの座を守り抜こうと、色々な仕掛けを打って来たのですが、それがことごとくコケてしまっていたのです。ストロングマシーンズ、海賊男、たけしプロレス軍団乱入などがイイ例でしょう。さすがの猪木も自らの衰えを悟り、次期エースを決めなくてはならない立場だったのです。
猪木と長州、前田らによる世代間闘争は、残念ながら純粋なプロレスの試合において決着をつける形での闘争ではありませんでした。猪木の衰えは誰がどう見ても明らかだったので、猪木は長州、前田に強さや試合内容で圧倒することはできません。そこで猪木は、直接長州、前田らと対決するのではなく、みずからのアイデアで世間をあっと言わせることでリーダーシップを発揮しようとしていたのです。もっともその結果は前述のように迷走以外の何物でもない状況を作り出してしまったわけなのですが・・・

さてそんな猪木にとっても、やはり自分を本気で恨み抜いている前田日明は邪魔者でした。

「アントニオ猪木だったら何をやっても許されるのか!?」

そう言って自分の顔面にハイキックを見舞ってきた前科のある前田は、とてもじゃないけど自分がコントロール出来るようなタマじゃない・・・それなら前田を追い出して、長州を暫定トップに据え置いた方がイイだろう。こうして猪木と長州の利害は一致し、前田包囲網が形成されたのでした。

猪木・長州・前田のギクシャク不穏とした関係は、1987年11月、ついに前田の長州顔面蹴撃事件という形で決着がつくことになりました。
これは、タッグマッチにおいてサソリ固めをかけていた長州に対し、カットに入った前田が思いっきり顔面を蹴り上げて顔面骨折させてしまったという出来事です。このことが原因で前田は新日本プロレスを解雇され、UWFを再び立ち上げることになったのです。
それにしてもこの事件・・・考えれば考えるほど面白いというか変な事件です。だって一般的なプロレスのルール?的に考えれば、タッグマッチでカットに入った前田の行為は取りたててフツーのことですし、ワザを受けた選手がケガをすることにしてもありふれた日常です。
一応、当時の見解によれば、前田は「暗黙のルール」を破ったのだから解雇止むなしという論調が大勢的でした。そもそも新日本プロレスの総帥であるアントニオ猪木が

「プロレス道に外れる行為だ」

と公式にコメントしておりますから。
でもこれもおかしな話です。まずそもそも、「プロレス道」って一体なんなんでしょう?「暗黙のルール」ってなに? そういう猪木自身にしたって、かつてグロッキー状態で無抵抗だったグレート・アントニオという外国人レスラーの顔面を思いっきり蹴り上げて怪我させたことがありますし、そもそもプロレスというのは相手を倒すことを目的とした「格闘技」のはずです。怪我など日常茶飯事です。にも関わらず、なぜこの時の前田ばかりがそのような処分を受けたのか、理不尽な話ではありませんか。これは自ずと、プロレスとは本気のガチでやっている訳ではないと言っているようなものです。
ちなみにアメリカでは、危険なワザで相手を怪我させるようなレスラーは干されるのが常識とのことです。プロレスとはあくまでショーであって闘いなどではないのだから、相手を本気で痛めつけるような行為は論外なのです。ストロングスタイルを謳う猪木からすれば、そういった暗黙の了解事を最も否定していたはずなのですが・・・
これは、考えようによっては、前田日明とは、そこまでしてでも追い出したい存在だったということなのでしょう。
いずれにせよ新日本プロレスの世代間闘争は決着をみることになりました。その後1988年7月、長州力はアントニオ猪木とのシングル対決で見事フォール勝ちを収め、名実共に新日本プロレスの次期エースとしての道を歩み始めるのです。

★第二次UWF設立 1988年5月

新日本プロレスを追放された前田日明は、格闘プロレスの夢よもう一度と、再びUWFを立ち上げます。これが通称・第二次UWFと呼ばれている伝説の団体です。
かつて失敗した第一次UWFの反省を活かし、前田はチケットぴあを通じたチケット流通等、フロント部門を充実させて営業力を強化します。また、レーザーライトを多用するなどして派手な演出を行い、巡業をやめて大都市大会場での興業に絞るなど、興業をイベント化することによって集客力を高めました。また、試合のビデオソフト販売を収入源として確立したのは第二次UWFが最初だったのではないかと思われます。
UWFの所属選手は前田、高田、藤原、山崎、船木、鈴木みのると言った層々たるメンバーに、ジェラルド・ゴルドー、クリス・ドールマンと言ったヨーロッパ格闘界の大物の協力を仰ぎ、戦力的にも申し分ありません。
UWFはまず、従来のプロレスとの区別化を図るため、カウント3による勝敗決定を排除し、10カウントダウン、ギブアップ、5ダウンによるTKO(打撃によるダウンのほか、関節技によるロープエスケープ3回を1ダウンに換算)と言ったスポーツライクな試合決着を採用しました。そのうえ試合内容にしても飛んだり跳ねたりロープを使ったりもしない、キックと関節ワザ主体の極めて格闘技ライクなスタイルで、これもファンの大きな支持を得ることになりました。
また、当時のプロレスは、大物同士の戦いになればなるほど、双方の「格」を落とさないために両者リングアウト、反則決着と言ったフラストレーションの溜まる結末になることが多く、そうした不透明さもプロレス人気の低迷に拍車をかけておりました。そこへ持ってきてUWFは完全決着を打ちだしたので、これまたファンの圧倒的な支持を得ることになったのです。

UWFは一大ブームを巻き起こし、いつしかプロレスファン的にも、UWFこそが本物の格闘プロレスで、新日、全日などは、紛い物のプロレスだという空気に支配されます。かつて猪木が馬場に対して行ったことの報いとでも言えばいいのでしょうか。
このUWFの一大ムーブメントこそが後の総合格闘技の源流となって行くのです。

さてUWFがこの世の春を謳歌している間の新日本プロレスの動きです。
まずはテレビ中継の話から。長州が出戻る頃まで新日本プロレスの試合は、テレビ朝日により「ワールドプロレスリング」の番組名で、ゴールデンタイムにレギュラー放映されておりました。それが視聴率の低下により、山田邦子を司会とした「ギブアップまで待てない!!ワールドプロレスリング」というバラエティー風プロレス番組としてリニューアルされたのです。
これは一般層をプロレスファンに取り込もうという目論見だったのですが、見事にコケてしまいます。テレビ中継がそのように茶番化したのとタイミングを同じくして第二次UWFが発足したために、ますます新日本プロレスの方は所詮プロレスだという風潮に拍車がかかってしまったのです。
そうして新日本プロレスの人気はズルズル低下し、ついに新日本プロレスのテレビ中継は、ゴールデンタイムから夕方枠に追いやられることになったのでありました。力道山の街角テレビ以来、テレビと共に発展してきたプロレスの歴史は、ココで一つの終着点に辿りついてしまったと言えるでしょう。

もっとも、ココで一つ誤解してはいけないのは、UWF勢と新日本勢がガチで戦ったら、格闘性の高いUWF勢の方が強いのかと言ったらそういう訳でも無いということです。以前にも書いたとおり、新日本プロレスの道場においては、フツーに関節技やバックの取りあいをやるスパーリングをやっております。また、元・新日本プロレスレフェリー、ミスター高橋の証言によれば、長州力はガチのスパーリングでもケタ違いに強かったということですし、元柔道日本一で2m近い巨体の坂口征二がガチでやったら強くはないなんてことは到底考えられません。なればこそ、新日本勢はUWFの人気に対して歯がゆい憎しみを抱くことになったのです。

もう一つの特筆事項は、1989年にアントニオ猪木が国会議員になったことでしょう。国会議員就任という、この上ない成功と名誉を得た猪木はプロレスに対する関心を急激に失い、新日本プロレスの実権は、坂口征二と長州力の手に移ることになったのです。
もっとも、まだこの時点で猪木は大パトロンである佐川急便代表・佐川清氏の所持する新日本プロレスの株式51%以上を自由に出来る立場にあったので、猪木がその気になればいつでも新日本プロレスを思いのままに動かせる状況ではあったのでありますが・・・

★全日本プロレスと天龍革命 1986〜1989年頃

長州率いるジャパンプロレスは、全日本プロレスに大きな置き土産を残していきました。それは日本人同士による熱いハイスパートレスリングです。そのスタイルに大いなる感化を受けたのが、当時、全日本プロレスにおいてジャイアント馬場、ジャンボ鶴田に次ぐ第三の男であった天龍源一郎でした。
天龍はそれまで馬場が歩んでいた王道路線、大物外国人を中心としたクラシカルスタイルに異議を申し立て、天龍革命をブチ上げます。天龍は阿修羅原、サムソン冬木、川田利明らを引き従えて全日本プロレスのリングで多いに暴れまわったのでありました。
御大馬場としてはそれが興業のプラスになるならばと天龍革命を受け入れ、全日本プロレスにおいても日本人同士の熱い戦いが繰り広げられるようになりました。なにしろ天龍が繰り出したサッカーボールキックのガチ具合があまりにも凄惨で、あの前田日明が「あんな蹴りをやられたんじゃあオレ達のやっているキックが霞んでしまう!」と悲鳴をあげたくらいですから、いかに天龍革命が熱かったが分かります。

やがて天龍は全日本において事実上のトップにまで上り詰めることになるのですが、残念ながら御大馬場の意識までも変えるには至らなかったのです。
天龍革命がある程度の成果をあげたところで、結局、全日本プロレスのスタイルは、鶴田をエースに据えての豪華外国人路線へと戻ることになります。日本人同士の戦いでは、いずれマッチメークに行き詰るし、新日本と同じことをやってもしょうがないというのが馬場のプロレス感だったのか、あるいはたんに馬場が天竜の人気に嫉妬しただけだったのか・・・いずれにせよ天龍の灯した革命の炎はここに潰えてしまったのでありました。。

★SWSの襲来 1990年頃

こうして天龍はジャンボ鶴田に次ぐ全日本プロレス不動の"ナンバー2"の座を手に入れることが出来ました。このまま序列格付けの明確な全日本プロレスにいれば、エース・鶴田を超えることは出来ないものの、確実に安定したポジションに居座れることは間違いなかったでしょう・・・が、もちろんそれは天龍の本意ではありません。

「いったい何のための天龍革命だったんだ!? オレの戦いに意味はあったのか!?」

魂を燃焼しきれず、燻ぶりモヤモヤし続ける天龍に、悪魔の囁きが忍び寄ります。

「今度、新団体を作ることになったんで、エースとして来て貰えないか? 金ならいくらでも出す!」

そんな天龍の心境を見透かしたように声をかけて来たのは、メガネスーパーの社長・田中八郎氏でした。
1990年5月、もともとプロレスファンだった田中社長は、その豊満な資金を手に、自ら理想のプロレス団体を作って一儲けしてやろうと突如、プロレス団体に乗り込んで来た黒船となったのです。
このメガネスーパーマネーによって設立された新団体・SWSには、他にも天龍と同じように微妙なポジションに甘んじていたレスラーが次々と集まってきました。
新日本からは、ジョージ高野、ケンドー・ナガサキなど、全日本からは、天龍の他にザ・グレート・カブキ、サムソン冬木、石川啓士、谷津嘉章、更にフロントスタッフを多数引き抜かれることになり、特に全日本プロレスは崩壊寸前の危機にまで追い込まれることになったのです。
このメガネスーパーのプロレス界進出は週刊プロレスから"金権プロレス"と揶揄され、選手の引き抜きによるギャラ高騰、選手間団体間同士による疑心暗鬼を引き起こすことになり、プロレス界に大きな激震を引き起こしたのでありました。
ちなみにSWSから提示された天龍の年俸は、当時全盛期だった落合博満と同程度だったと言われており、その他のレスラーも2,3000万くらいは貰っていたのではないかと推測されます。それに対して、全日本プロレスから移籍組で年俸1000万を超えていたのは、天龍、谷津、カブキの3人だけで、最高でも天龍の2335万でした。
以前、新日本からの引き抜き話の噂があったカブキに対し、馬場が練習前に声をかけてきて、こんなやりとりをしたそうです。

「おう、ギャラだけどな、若いヤツを教えてくれているから、(1試合につき)100円上げてやるからな。」
「たったの100円ですか?」
「バカ野郎、年間にしたらいくらになると思ってんだ。」

結局、100円じゃああんまりだってことでそのギャラアップは500円になったとのことですが、そりゃあ全日本のレスラーも大量離脱するでしょう。新日本のレスラーに関しては、全盛期の闘魂三銃士が3000万程度だったと推測されますので、いかにSWSの資金力が豊富だったのかがうかがわれます。


 第4話へと続く


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