第5話 インディー団体の乱立〜

★邪道プロレスFMW 1989年10月設立

さてプロレス界のその後の歴史に多大なる影響を与えた団体と言えば、FMWを外すことは出来ません。選手生命を断つような大怪我によって全日本プロレス引退を余儀なくされたポンコツJrレスラー・大仁田厚の興したFMWの台頭こそが、後の多団体時代を引き起こした元凶と言えるでしょう。
※Jr=ジュニアとは、ジュニア・ヘビー級の略で、小型レスラーのクラスのこと。

「大仁田ごときへっぽこレスラーがあんな大成功を収められるんだったらオレでも出来るはずだ!」

大仁田の大成功は、こんな勘違いをして独立し、そして更なる奈落の底に沈んでしまったレスラーをどれだけ生み出して行ったことか・・・

大仁田厚は年代的には天龍、長州、鶴田らの少し下・・・前田日明とほぼ同世代のレスラーです。全日本プロレスにおいてジャイアント馬場に非常に可愛がられ、ジュニアのエースとしてそこそこの活躍をしておりました。そのまま行けば全日本プロレス内でそれなりのポジションで安定した活躍が出来たのでしょうが・・・1985年、第一次UWFが活動していたくらいの時期、試合中にヒザの皿を割る大怪我を負ったことが原因で引退するハメに陥ってしまったのです。
その後の大仁田は全日本女子プロレスのコーチなどを行っていたのですが、リング上でスポットライトを浴びるという栄光を忘れられず、たった5万円の資金を元手にFMWを旗揚げし、大成功を収めることになったのです。
ちなみにかつて大仁田は、第二次UWFの邪道?なプロレスに腹を立て、

「あんなプロレスは邪道じゃあ!オレが本物のプロレスを見せてやる!」

と息巻いて、挑戦状片手にUWFの会場に乗り込んだところ、

「チケット持ってますか?」

と追い返されたという笑い話もあったようですw
でもなるほど確かに、プロレスとは反則から凶器まで何でもアリのフリーダムな戦いこそが魅力なのであって、格闘技まがいのガチガチなUWFスタイルなどはプロレスじゃないという大仁田の理論には一理ありますね。そう言った強力な信念を持っていたからこそ、大仁田FMWは成功したのでしょう。

FMWは当初、おもちゃ箱をひっくり返したようなプロレスをうたい文句とし、異種格闘技、デスマッチ、女子からミゼットまで何が飛び出すか分からないプロレスを展開しておりました。大仁田が初期FMWにおいて、元・ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、レオン・スピンクスと異種格闘技戦を行っていたなど、後のFMWの姿からは想像もつかないでしょう。
思考錯誤のあげく、結局FMWはデスマッチ路線が主体となっていく訳なのですが、その何でもアリ過程の途中において、プロレス界全体にもいくつかの波紋を残すこととなりました。
まず細かいところでは、空手道場・誠心会館の青柳政司をプロレス界に誘ったことがあげられます。青柳は後に新日本プロレスに殴りこみ、反選手会同盟と熱い抗争、共闘を繰り広げ、スマッシュヒットを飛ばすことになります。後に新日本プロレス、ノアなどで活躍することになる斉藤彰俊、ミスターデンジャーとして名を馳せた松永光弘などがこの誠心会館の出身です。
他には、後にみちのくプロレスを経て大阪プロレスを旗揚げすることになるスペル・デルフィンもTPG(たけしプロレス軍団)を経ておりますがFMWが実質上のプロデビューとなっております。

ちなみに筆者が初めて生で見たプロレスとは、FMWだったりしますw この時、目の前で繰り広げられたノーロープ有刺鉄線デスマッチのすざまじいまでの迫力にド肝を抜かれ、大仁田の水噴きパフォーマンスに狂喜乱舞したのはイイ思い出ですよ。
2階席一番前の純粋な観戦目的なら一番イイ場所と言えるチケットを買って、江崎英治・・・のちのハヤブサの前座試合を見て、
「へ〜FMWのクセにこうも見事にフランケンシュタイナーを使いこなす若手がいるのか凄いじゃん!」
と感心したり、ナースコスプレで登場したナース中村vs鍋野ゆき江の女子試合を見て、
「こういう色気も必要だな☆」
とニヤニヤしたり、だんだんとメインが近づくに連れて試合のレベルが上がってくるのを見るにつけて「プロレスの生観戦って面白いな〜」とテンションがあがってきます。そこからリングに有刺鉄線を張るための休憩時間を挟み、「おいおいマジでこんな試合するんかあ!」とワクワクドキドキしながらゴングが鳴るのを待っていたらいよいよ大仁田厚の登場です。ココで会場のボルテージは一挙にあがり、戦いのゴングが鳴ると、もう会場内は大爆発を起こしたような超盛り上がりとなりました。こうなっては居ても立ってもいられません。それまで一番見やすい2階最前列で優雅な観戦をしていた筆者は、思わず1階まで下りてしまっておりました。
この日のメインは大仁田、サンボ浅子vsザ・グラディエーター、ビッグ・タイトンによるノーロープ有刺鉄線デスマッチだったと記憶しております。有刺鉄線が切れて試合が場外乱闘に及び、手が届くような至近距離で有刺鉄線に巻かれたレスラーが殴り合いぶつかりあるド迫力に圧倒されてしまいましたよ。
なお余談ですが、この日の興行ではたまたまミスター・ポーゴが乱入して来て大仁田を血祭りにし、FMW再戦をブチあげるというサプライズもありましたw

もともとが「最強の男は誰だ?」を追い求めてプロレスを見始め、毎月リングスの放映を楽しみにしていた格闘思考全開の筆者でしたが、大仁田厚の自らの体を切り刻んで血を流し戦い続ける姿は、紛うことなき本物だと認めざるを得ませんでした。そんな筆者は実のところプロレスラー大仁田厚の大ファンでしたw(二度目の引退をするまででしたけど)
その後のFMWは、大仁田とテリー・ファンクのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで川崎球場に5万の観衆を集めるまでに勢いを増し、マット界の第三勢力にのし上がります。大仁田は地方巡業でも手を抜かずに有刺鉄線マッチを行い、ココぞというときには大会場で電流爆破デスマッチを仕掛けて行きました。
FMWは完全な大仁田の一枚看板団体です。そのうえ大仁田自身はまともに腕も上がらず膝もまがらないポンコツだったのですから、大仁田は文字通りに限界まで体を張るしかなかったのです。

「俺はFMWは絶対に潰さん!!」

この涙のカリスマ・大仁田厚の叫びは、自分自身のボロボロの肉体で、三流レスラーばかりが集まる潰れかけのインディー団体を背負っているという悲壮感に溢れ、多くの大仁田信者の心を揺さぶったでありました。
やがていよいよ体に限界を感じた大仁田は1994年、天龍源一郎に敗れたことを機に、一年後の5月5日に川崎球場で引退することを発表します。引退マッチにはFMW設立当初からの盟友、ターザン後藤を指名するのですが、なんと!後藤は大仁田引退試合の1週間前になってFMWを離脱してしまったのです。なぜ後藤が最後の土壇場で大仁田を見限ったのか? この謎については当事者の後藤が「墓場まで持って行く」と口を閉ざし、今だ真相は明らかにされていないのですが、大仁田無き後のFMWの新体制においての扱いに不満を持ったからという説が有力です。なんでも、若手に評判の悪い後藤を大仁田と同時に引退させるという話が団体内でまとまりかけたところ、FMW内で後藤派だったミスター雁乃助がそのことを後藤にチクって離脱騒動に繋がったとか・・・真偽のほどは定かではありませんが、それなら後藤が頑として真相を語りたがらないというのも頷けます。
ターザン後藤の代役には、FMW期待の新星・ハヤブサが抜擢されることになりました。そんな人材がいるなら何故最初からそうしなかったのかと言えば、なんでもハヤブサは才能抜群なイケメンだったが為にお山の大将気質な大仁田かに嫉妬されていたからwというのが故・FMW社長・荒井昌一氏の証言です。もっとも、荒井氏は大仁田に物凄い恨みを持っていたようなので、その発言の真偽については多少割り引いて聞いておかないといけないところですが・・・ハヤブサの語る大仁田に関する話はボロクソに叩いているものばかりだということは確かです。
ともあれ、ハヤブサは大仁田の後継者としてFMWを託されることになりました。ハヤブサ率いる新生FMWは、それなりの業績をあげ、インディー団体としてはまずまず頑張ってはいたのですが、やはりジリ貧状態となっていきます。いかにハヤブサが逸材だったとは言え、一枚看板のエースとなるほどの器では無かったのです。そこに大仁田厚が復帰してきて団体をゴチャゴチャに掻きまわしたものですからたまりません。FMWは団体としての方向性を見失い迷走することになったのです。
それでもFMWは頑張りました。ディレクTVの支援を取り付けたことにより息を吹き返し、ハヤブサを中心とした正当派路線、サムソン冬木を中心としたエンターテイメント路線、元祖大仁田ばりのハードコア路線と色んなチャレンジをして行きました。でもそんなFMWも、そのディレクTVが撤退することによって一気に業績を傾けることになるのです。
2002年2月、FMWの歴史は荒井昌一社長の自殺という最悪の結末によって幕を閉じることとなりました。大仁田引退からおおよそ7年、よく頑張ったと言えるでしょう。FMWの残党は、その後も雨後のタケノコのように新団体を設立しては潰しあるいは分裂して行くことになるのです。

荒井社長が自殺直前に著して、自殺ニュースの直後に出版された「倒産!FMW」はプロレスファン必読の名著だと思いますので、是非一読して欲しいところです。
筆者はこの本を読んで荒井社長がもともとFMWのリングアナウンサーだったということを知り、「え!あの人だったのか!!」ととても驚きましたよ。筆者が初めて生で見たFMWのプロレス興業において、FMWにはなんとも特徴的なしゃべりで声の通るリングアナウンサーがいるんだなーとかなり印象的に思いましたので。あのときのリングアナがまさかFMWの社長になっていて、それがこんな悲劇的な最後を遂げたというのですから、その驚きたるやハンパではありませんでした。
でも荒井社長死すとも、大仁田はじめFMWの残党たちが、何喰わぬ顔でのうのうとインディー団体を旗揚げしては分裂解散させている姿を見ると複雑な気分になります。真・FMWだのWMFだのが出来たのはまだ理解の範疇に収まったものの、さすがに"ターザン後藤一派"などという団体?が生えてきたときには失笑を禁じ得ませんでした。
安易かつ無責任にインディー団体を乱立させぬよう、プロレス関係者全員に、「倒産!FMW」を一読して欲しいところです。

★女子プロレスの多団体時代 1992年頃〜

FMWは何気に女子プロレス界にも大きな影響を与えております。当時、女子プロ界は全日本女子プロレス(全女)を筆頭に、JWP、LLPWの3団体がしのぎを削っておりました。後に女子プロレス界は団体対抗戦黄金期を経て貧乏多団体時代に突入することになるのですが、そのきっかけを作ったのはFMW女子だったのです。
ちなみに各団体の中心選手は、JWPのエース格がキューティー鈴木、尾崎魔弓、ダイナマイト関西など、LLPWは風間ルミと神取忍の二枚看板、その他メジャーレスラーは皆全女と言ったところでしょうか? ブル中野、北斗晶、豊田真奈美、井上京子、貴子、アジャコングなどを擁した全女が頭一つ抜けて選手層が厚かったですね。

当時、ジャパン女子プロレスから分裂枝分かれしたJWPとLLPWは犬猿の仲だったし、全女は全女で王道路線を歩んでおり、3団体は決して交わることの無い間柄だったのですが、その壁をこじ開けたのがFMW女子でした。シャーク土屋、クラッシャー前泊の二人が全女の豊田真奈美・山田敏代に挑戦状を叩きつけたのを皮切りに、JWP、LLPWをも巻き込んだ大交流戦へと発展していったのです。
1993年、横浜アリーナで行われた夢のオールスター戦において、女子プロレスは超黄金期を迎えるのですが、でも逆に、そこで最高のカードを出し尽くしてしまったことが女子プロレス界の寿命を縮めることになってしまったのだから皮肉なものです。

もともと女子プロレスとは若い女の子の憧れ的な、戦う宝塚とも呼ばれている特殊なジャンルでありました。でもそれが、1989年にクラッシュギャルズが解散した頃から女子プロレスは格闘技的な意味でのプロレス化が進み、本来の女子中高生を中心にしたファン層が離れて男のプロレスオタクが流入して来ているとい現象も起きておりました。そんな過渡期に最高の対抗戦を行われてしまったが為に新しい層のファンは通常の興業では飽き足らなくなってしまい、交流戦が日常化することとなってしまいました。そうなるとすぐさまマッチメークに行き詰ることになってしまい、やがて女子プロレスは空洞化して行ったのです。
女子プロレスがプロレス的な意味でのガチ路線を進むことにより、それまで全日本女子プロレスにおいて頑なに守られていた25歳定年制が崩れてしまったことも、女子プロ人気を低落させた要因であることも間違いありません。禁断の交流戦においてマッチメークが飽きられてしまったうえに、いつまでも同じ顔ぶれの色気の無いオバさんレスラーばかりがのさばるようになったのでは、女子プロ人気が落ちるのも無理のないことです。
この一時訪れた女子プロ黄金期に、元・クラッシュギャルズの長与千種、ライオネス飛鳥の二人が復帰して来たことが女子プロ飽和状態を一気に加速させます。この二人はかつて1985年頃、空前絶後のクラッシュギャルズブームを巻き起こした元・スーパースターであり、夢よもう一度と舞い戻って来たのでしょう。で、1994年、その長与千種が新たにガイア・ジャパンを設立したことにより、多団体化の波まで訪れてしまったのです。
1997年、ついに最大手団体、全日本女子プロレスが倒産してしまいます。これは全女の経営主である松永兄弟の放漫経営によるツケという側面も大きいのですが、それでもやはり女子プロレスそのものの人気低迷が最大の要因であることは間違いないでしょう。
その後、全女の残党は再生残留組のほか、元・全女の番頭ロッシー小川とアジャコングが中心のアルシオン、井上京子が中心のネオ・レディースとそれぞれ分裂旗揚げすることになり、女子プロレス界はますますカオスと化して行ったのでありました。
2014年現在、ガイアもアルシオンもネオ・レディースも、もはや原型を留めておらず、更に分裂細分化した団体が細々ワラワラと活動しているというのが女子プロレス界の現状です。未だにダンプ松本なんかが現役やっているあたり、次世代のスターが育っていないお寒い状況を表していると言えるでしょう。

★ユニバーサル・プロレスリング 1990年

日本におけるルチャ・リブレ(飛んだり跳ねたり主体のメキシコ流プロレス)の普及に多大なる貢献を果たした草分け団体がこのユニバーサル・プロレスリングです。ユニバーサルは、特に何処か何かの団体からの枝分かれ派生団体という訳ではありません。あえて言うなら、新間寿の派生団体とでも言えるでしょうか。新日本プロレスを追放され、UWFでもコケてしまった新間寿が止むに止まれずルチャ主体の団体を作ってみた、ユニバーサル・プロレスとはそんな団体です。
ユニバーサルは当初、日本人レスラーにおけるルチャのトップ・テクニシャン、グラン浜田をエースに据えておりました。それからグレート・サスケ、スペル・デルフィン、浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)などといった層々たるメンバーが参戦し、充実した試合内容を繰り広げます。ちなみに後に手堅い仕事人として定評を得てインディーの雄となり、ついには新日本プロレスのマッチメーカーの座にまで登りつめた邪道・外道もこのユニバーサルの出身です。さらにこの邪道・外道のルーツを探って行くと、もともとは第三話で登場した、たけしプロレス軍団だったと言うのですから、なんとも因果は巡るものです。

さてその後のユニバーサルなのですが、でもそこはやはりテレビ放映も無いインディー団体のこと、結局は資金がショートしてしまい、崩壊することとなります。
なお余談ですが、大仁田厚も当初はユニバーサルに所属する予定だったのが、旗揚げ時期が遅れてしまったが為にシビレを切らし、自分で団体を作ることにしたのがFMWだったとか。もしも大仁田が当初の予定通りユニバーサルで復活していたら、その後のプロレス界はどうなっていたんでしょうね?
それからグラン浜田の娘、浜田文子が1998年に17歳でアルシオンにおいてデビューし、その後、女子プロレス界全体のエース格にまで上り詰めております。2005年の話になりますが、筆者がハッスルというプロレスを見ていた際に、ドクロンZというなかなか可愛いテクニシャン女子レスラーを好きになったのですが、後でそのドクロンZとは何者なのかを調べてみたら、彼女こそがそのグラン浜田の娘だったと知って驚いたものでした。

★みちのくプロレス〜大阪プロレス 1992年〜1999年

「このままじゃいけない! 資金の流れをしっかりガラス張りにして、レスラーみんなが経営状況を知り、フロントに不信感を持たない団体運営をしなくては!」

1992年、そんなコンセプトのもとに、ユニバーサルからグレート・サスケ、スペル・デルフィンらが独立し、「みちのくプロレス」が誕生することになりました。
みちのくプロレスは小所帯ながらも地道な活動を続け、手堅くファンを増やしては行ったのですが、1999年、サスケとデルフィンとの間で対立が起こり、デルフィンを旗頭とした大阪プロレスと分裂することとなってしまいました。

★闘龍門〜ドラゴンゲート 1997年〜2004年

日本ルチャ界最大の大物と言えるウルティモ・ドラゴンは、ユニバーサルを見限ってメキシコに渡り腕を磨くことになります。ルチャの本場で実績と実力を身に付けたウルティモ・ドラゴンはその後も日本とアメリカ、メキシコを又にかけての大活躍をし、1997年、闘龍門を設立することとなり、更に2004年、ドラゴンゲートに分裂することとなりました。

 第6話へと続く


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