第7話 その後のUWF系3団体

★ファイティングネットワーク・リングス 1991年〜

かつての仲間に去られ、ただ一人リングスを旗揚げした前田日明は、世界各地を飛び回って未知なる強豪格闘家たちと接触し、ファイティングネットワーク・リングスネットワークを作り上げます。

「世界最強の男はリングスが決める!」

をキャッチフレーズに、リングスは衛星放送・WOWOWの支援を取り付けてその豊富な資金を元に幅広い活動を展開して行きました。
特にUWF時代から付き合いのあったオランダの大物格闘家、クリス・ドールマンの協力は初期リングスに多大なる貢献をすることになりました。サンボ、キック、レスリングなど、多彩な格闘スタイルを擁するオランダ勢の活躍は目覚ましく、初期リングスを多いに盛り上げることになりました。後にK−1王者として君臨することになるオランダのキック王、ピーター・アーツも、初来日はリングスだったりします。
それから、初期リングスを語るにはヴォルク・ハンの名前を外すことは出来ないでしょう。後にロシアン・トップチームを創設し、人類最強の男ヒョードルを輩出するに至ったこのコマンドサンボの達人は、その奇異かつ本物のテクニックで多くの格闘技ファンを魅了することになります。ヴォルク・ハン無くしてリングスの台頭は無かったと言ってもいいくらいのものです。
その他にもグルジア、ブルガリア、アメリカ、ブラジルなどにもリングスネットワークを広げ、リングスは世界の様々なジャンルの格闘家が集う夢のリングとなったのでありました。ファイティングネットワークの名は伊達では無かったのです。
それともう一つ忘れてはいけないのは空手道場・正道会館との提携でしょう。日本人選手の手駒不足に悩む前田と、空手を興業として成り立たせて格闘技ビジネスに乗り出そうとする正道会館・石井館長の利害が一致し、佐竹雅昭、角田信明らがリングスに参戦することとなったのです。
石井館長はリングスから興業プロモートのノウハウを学び、後にK−1を立ち上げることとなりました。リングスとの提携無くしてK−1の存在は無かったことは間違いありません。

筆者がプロレス・格闘技に魅了されたのは、このリングスの素晴らしさによるものでした。プロレスラー、サンボマスター、キックボクサー、柔道家、アマレスラーなどなど、あらゆるジャンルの格闘技の世界チャンピオンが統一されたルールの下で戦うことを実現したリングス。筆者は1〜2ヶ月毎に放映されるWOWOWのリングス中継が楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。
基本的にはUWFルールを踏襲した、10カウントダウン、ギブアップ、5ノックダウンによる完全決着。グローブ着用又は掌打による顔面攻撃、パッド着用によるヒジ打ちあり、ダウン状態での打撃無しというルールは、当時としては極めて公平なルールに思われました。実際の試合にしても、それぞれの格闘家が自分の持ち味を最大限に引き出して、打撃系と寝技系の息詰まる攻防は本当に見応えがありました。
でもそのリングスも、やがてより過激な総合格闘技の波に飲み込まれて行くことになるのですが・・・

★プロフェッショナルレスリング藤原組〜パンクラス 1991年〜1993年〜

藤原、船木、鈴木を中心とした藤原組は、メガネスーパーの庇護を受けての船出となりました。資金的には申し分無かったのですが、やがてメガネスーパーがプロレス興業に見切りをつけ、団体運営から手を引き始めると、団体内もギクシャクしたものとなってきます。
そもそも藤原自身は、たまたまシュートのテクニックに秀でていたために格闘系レスラーの中心人物のように祭り上げられていましたが、実のところはそれほどガチ思考の強いレスラーでは無かったのです。そうしたことから、まだまだ若くガチ思考バリバリだった船木鈴木との間に溝が出来てしまい、結局1993年、船木鈴木は藤原組から独立してパンクラスを立ち上げることになります。
ちなみに筆者はリングスとUインターの試合は欠かさず見ていたのですが、藤原組に関してはあまり見た記憶がありません。鈴木みのるがキックボクサーのモーリス・スミスと何度も戦っていたことは覚えているんですけどね。藤原組はいまひとつコンセプトの分かりにくい団体だったような印象です。
新日本プロレス、UWF、藤原組を渡り歩いたものの、結局「プロレス」の呪縛から逃れることの出来なかった船木鈴木は、今度こそはとパンクラスを自らの理想の団体に染め上げました。結果、パンクラスは船木、鈴木が中心となってパンクラススタイルとも言える総合格闘技的な一つのスタイルを作り上げ、パンクラシストと呼ばれる純粋培養レスラーたちによる理想のガチ格闘技プロレス団体を作り上げることに成功したのです。
旗揚げ戦のメインイベント、船木vsシャムロックこそは6分35秒の試合時間となったものの(シャムロックのギブアップ勝ち)、なんと!全5試合での合計試合時間がわずか13分という壮絶なものとなったのです。その後もパンクラスは1分そこらで試合が決まる"秒殺"の続出が話題となり、パンクラスは本気のガチ団体としての地位を確立したのでした。
でもそんな格闘技プロレスの理想郷も、興行を続けるにつれ「興業団体」としての現実を思い知らされることになります。一時期はガチ系団体としてリングス、UWFインターナショナルをも引き離したかに思われたパンクラスも、やがて更なる黒船の遭遇に見舞われることになるのでした。

なお、船木鈴木離脱後の藤原組については、一時期は藤原組長と石川雄規の二人だけの状況となってしまいますが、その後、新たに何人かの弟子が入門し、地道に活動を続けます。でも事実上藤原の一枚看板での団体運営はやはり苦しく、結果、藤原組長以外の選手が「格闘探偵団バトラーツ」を立ち上げ独立するに至り、藤原組は解散することとなりました。その後のバトラーツは混迷のあげく2003年に解散することになりますが、藤原組長はその多才ぶりをいかんなく発揮し、芸能界などでも活躍しております。
また、プライドなどで活躍した島田裕二レフェリーも、藤原組の出身です。

★UWFインターナショナル 1991年〜1995年

1990年代前半において、一番センセーショナルな話題を提供し続けた団体は、このUWFインターナショナル(Uインター)でしょう。
Uインターのコンセプトは新日本プロレスへの原点回帰でした。新日本プロレスの全盛期と言えば、アントニオ猪木を絶対エースに添えての「いつ何時、誰の挑戦でも受ける!」な攻撃一辺倒の姿勢です。Uインターの真のリーダー、宮戸優光と安生洋二は、高田をアントニオ猪木、自分達を新間寿に置き換えて、過激な仕掛けを放って行ったのです。
まず高田は、異種格闘技戦で元プロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、トレバー・バービック、元横綱、北尾光司を撃破します。なお、UインターのルールはかつてのUWF、リングスと同じようなルールです。
また、プロレスの鉄人、ルーテーズ公認のプロレスリング世界ヘビー級チャンピオンのベルトを手にして箔を付け、ゲーリー・オブライト、サルマン・ハシミコフ、ビッグバン・ベイダーらを相手に防衛戦を行い、自らがベルトの権威を高めて行ったのでありました。
当時のプロレスのタイトルと言うと、新日本のIWGP、全日本の三冠がメジャー所かと思いますが、当時の筆者的感覚ではこのUインターのベルトが一番権威があるように感じられました。実際、高田vsオブライト、ハシミコフ、ベイターとのタイトルマッチは、どれもこれもプロレス的には超白熱の名勝負で、Uインター高田延彦は、自らを最強と名乗るのに相応しい実績を築きあげていたと思います。
さて新日本プロレスへの原点回帰を目指したUインターですから、その試合はもちろん「プロレス」でした。もっとも、トレバー・バービック戦については、当初はローキック無しということで話をつけていたはずなのに、高田が思いっきりローキック連打を連打してバービックを戦意喪失に追い込んでおりますし、北尾光司に至っては、もともとは完全にストーリーありきの展開で引き分けになるはずだったのを、高田がその約束を破ってハイキックを叩きこんでKOしたというのが定説となっております。もっとも、それが発覚したのは後の暴露本フィーバーになってからのことで、当時はUインターの試合は全てガチで行われていると思われていたのですが・・・

こうしてUインターはプロレスファンに、高田延彦こそが「最強」とのイメージを着実に植え付けていきました。実際、当時の前田日明はケガで休養中だったし、藤原組勢にしても、内に籠った狭い戦いをしていてインターナショナル感がまるでありません。新日全日のレスラーは完全に「プロレスラー」だったので、そもそも最強の座を争う土俵にすら上がれておれません。高田は確かに一度は、日本人最強レスラーの座に昇り詰めたと言えるでしょう。
さてココで攻撃の手を緩めたのでは、Uインターは猪木新間コンビにはなれません。調子に乗ったUインターは、まずは新日本のエース格、蝶野正洋への挑戦状を叩きつけます。
Uインターは当初、どんな試合条件でも受け入れると打診したため、新日本は数億円のギャラと巌流島での決戦を要求します。するとUインターはこの回答を、蝶野は高田に負けるのが怖いからこんな無理難題を言って来たと内外に吹かしまくったのです。
また、突如行った記者会見において、テーブルの上にいきなし1億円の札束を積み上げて、新日本プロレス、全日本プロレス、リングス、パンクラスなどに対して、1億円争奪トーナメントを開催するから参加してくれなどという無茶ぶりもしました。
他にもこの1億円トーナメントの話において、リングスがトーナメントではなく交流戦ならOKとの前向きな返事をしながらも、結局条件面から不調に終わった時に安生洋二は

「今の前田日明なら200%勝てる」

と後だしジャンケンの挑発までしています。この安生発言に前田は激怒し、

「安生と道で会ったらタダでは済まさん。家族の前で制裁を加えるてやる!」

などと発言をしたのですが、これはどう見てもプロレス的なアングルでは無くガチ発言だったでしょう。何しろそれが前田の脅迫罪での訴訟問題まで発展するし、更に10年の時を経て、安生の前田襲撃事件が起こったのですから・・・

こうしてUインターは最強の名を欲しいままにはしたものの、内外に多くの敵を作り孤立して行ったのでした。


 第8話へと続く


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