第8話 総合格闘技の来襲とU系団体の落日

★K−1の野望 1993年4月〜

リングスとの提携により格闘技興業のノウハウを身に付けた正道会館・石井館長は、1993年4月、国立代々木競技館にて第1回K−1グランプリを開催します。この大会は世界各国からキック系の強豪選手を集め、K−1独自の統一ルールの下に立ち技最強の男を決めるという画期的なものでした。国立代々木競技館には12000超満員の観客が集まり、K−1は一大格闘技イベントとして定着することになったのです。
K−1の取った戦略とは、空手色を極力消すことだったと言えるでしょう。それまでの空手の大会と言うと、どうにも閉鎖的で流派ごとのルールが良く分からない不透明なものと言うイメージでした。それを畳の上ではなくてリングの上で、道着では無くトランクスで、グローブ着用の顔面パンチOKで、単純で分かりやすい打撃技ナンバー1決定戦であることを印象付けたのです。
石井館長のエラいところは、これを自ら主宰する空手道場・正道会館の宣伝繁栄のみを狙わずに、打撃系格闘技界全体を盛り上げようとしたところです。言ってしまえばK−1のルールや試合形式なんてのはキックボクシングそのままと言っても過言ではありません。それをあえてワールドワイドなイメージを作り上げ、しっかりと興行的に大成功に収めた石井館長の手腕は見事と言っていいでしょう。
さてK−1を成功裏に収め、その興業ノウハウを完全に自分のモノとした石井館長にとっては、もはやリングスとの提携など不必要なものとなりました。結果、リングスとK−1の間でオランダの選手を巡る引き抜き合戦が勃発し、物別れするに至っております。これより石井館長は、K−1を主軸に日本格闘技界の雄となるべく爆走して行くのです。

★アルティメット大会という黒船 1993年11月

1993年11月12日・・・この日こそが日本のプロレス&格闘技界を大きく揺るがすことになった一大記念日と言ってもいいでしょう。
当時、筆者はU系3団体の大会日程及びカードをチェックし、雑誌等で試合結果を知ることのないよう注意しながら、そのVTRのレンタルが開始されるのをワクワクしながら待っておりました。そんな筆者の元に届いた仰天ニュースがこの第一回アルティメット大会の情報だったのです。
なんでもアメリカで開催された、かみつき金的眼つぶし以外は何でもアリの格闘技大会で、グレイシー柔術とかいう聞いたことも無いワザの使い手、ホイス・グレイシーってブラジル人が、パンクラスの最強外国人、ケン・ウェイン・シャムロックと、かつて前田と死闘を繰り広げたジェラルド・ゴルドーを倒して優勝したとかなんとか・・・
当時の筆者は、マジでリングスのヴォルク・ハン、パンクラスのシャムロックあたへんが、世界最強に最も近い格闘家だと思っていたので、このニュースには仰天してしまいました。これは筆者に限らず、熱心にU系団体の試合を見ていた格闘ファンはみんなそんな感じだったのではないかと思われます。
グレイシー柔術ってなんなんだよアルティメット大会ってどんな大会なんだよ! そんなヤキモキする日本の格闘技ファンに対し、その大会のVTRが公開されることになったのは案外すぐのことだったように記憶しております。
残念ながら、筆者がどういう経緯でそのVTRを手に入れて見たのかはちょっと記憶に残っておりません。・・・でも、それを見た瞬間、リングスもパンクラスも終わったなと感じたことはよく覚えております。

何でもアリのバーリトゥード。その迫力は筆者を始めとした当時の格闘技ファンの想像を遥かに超えたものでした。当時の筆者の感覚からすれば、リングスやパンクラスのルールですらも、十分に何でもアリの総合格闘技に近いものだと思っておりました。でもいざこのアルティメット大会の第一回戦を目にしたら、そんな甘っちょろい幻想は一挙に吹き飛ぶことになりました。
金網に囲まれた八角形リングの中で、馬乗り状態から、素手で相手の顔面を殴る殴る、ケサ固めから相手の頭をヒジ打つヒジ打つ・・・寝ている相手への打撃アリ、それもブラスナックルでそんなことを認めたらこんなに凄惨なことになるのか! これに比べればリングスやパンクラスなんて遊びの格闘技だろ・・・そう思わざるを得ませんでした。
そんな荒くれ者のストリートファイトのような大会において優勝したホイス・グレイシーのテクニックは全く別格だったのです。シャムロックにしても流石にキングオブパンクラシストに輝いたこともある実力者だけあって、しっかりしたレスリング技術の持ち主だったのですが、ホイス・グレイシーはそのシャムロックを、まるで危な気無しに倒してしまったのです。
相手の打撃を避わして組みついて倒した後は、とにかくネチっこく密着したまま足を絡ませて、腹や腰にパンチを入れて有利な体勢を作り出し、最後はチョークスリーパーで仕留める。

絡みつき→倒して密着→パウンド(寝技打撃のこと)→ひっくり返してスリーパー

この流れは芸術的という他はなく、グレイシー柔術とは、正に何でもアリの戦い用に極め尽くされた技であるということを、日本の格闘技ファンにまざまざと思い知らしめる結果となったのです。
パンクラスやリングスなんざアルティメット大会に比べれば所詮ルールのある格闘技の一種だな。こりゃあグレイシー柔術に対しては前田や船木でもあぶねーな。ましてや新日のレスラーじゃあまるでお話にならんわ・・・アルティメット大会にそのような感想を抱いたのは決して筆者だけでは無かったことでしょう。

★パンクラスの場合 1994年〜

設立当初、逆三角形ハイブリッドボディの格闘戦士によって繰り広げられる、ガチ秒殺続出の超ハイスパットレスリングをウリとしたパンクラスは、たちまちプロレス格闘技界の話題を独占することとなりました。
なぜパンクラスでは秒殺決着が多かったのかと言えば、その過激なルールが一因です。まずは既存U系団体のルールでは、3ロープエスケープで1ダウン換算だったのが、パンクラスでは1ロープエスケープ=1ダウン換算となりました。また、なんと言ってもパンクラスの格闘スタイルを過激化したのはチョーク攻撃を解禁したことでしょう。これによってパンクラスの寝技レスリングはよりハイスパットで過激なものとなったのです。

※チョーク攻撃とは、ノドを直接締め上げる攻撃のこと。プロレスおよびUWFでは反則である。

こうしてパンクラスのリング上ではスピード感溢れるガチな対決が繰り広げられ、会場は多いに盛り上がることになりました。でもそこはやはり格闘技団体の運営です。船木はかつて佐山聡や前田日明が辿ったのと同じ道を行くことになったのです。

「潰し合いがしたいんじゃないんだ!」

あまりにガチな対決ばかりでケガ人が続出することになったパンクラスにおいて、船木はこう叫びました。・・・っておい、お前は前田UWFのヌルさ加減がイヤで、正真正銘のガチンコ団体作ったんじゃなかったんかよ・・・そう思ったのは筆者だけではありますまい。
自らが団体の長になることにより、船木はようやく本気の戦いばかりをやっていたらケガ人が増えるしコンディションは悪くなるしで「興業」としては成り立たなくなってしまうことが分かったのでした。
筆者は当時、友達とリングスごっこやパンクラスごっこをよくやっていたのですが(笑)パンクラスで多用されていたヒールホールドというワザを実際にかけてみると、ほんと簡単に足がグキっと行ってしまうんですよ。後にこのヒールホールドはあまりに危険ということでパンクラスにおける禁じ手となったのですが、さもありならんと納得できたものでしたよ。
また、選手の格の問題にしてもそうです。船木が育成した選手たちはメキメキと強くなり、やがてエース格の鈴木みのるが実力的に見て、完全に後輩たちに抜かれる時がやって来ました。でも鈴木みのるには冨宅、柳澤などといった後輩たちには及びもつかないネームバリューがあります。興行的に考えると、やはり鈴木みのるをメインイベンターから外す訳にはいかなかったのです。
そうした団体内の綻びと矛盾が表面化しだしたところに襲ってきたのがアルティメット大会ショックです。なんと言ってもパンクラスは、元キングオブパンクラシストが倒されたのですからそのダメージは計り知れないものがありました。

「ウチだってそれくらいのことがしたかったけど、そんなルールにしたら打撃系の選手が誰も来てくれなかった。」

パンクラスの1ダウン=1ロープエスケープ、チョーク攻撃有ルールに対して、前田日明はこのようなコメントを残しておりました。リングスはその影響で3ロープエスケープ=1ダウンから、2ロープエスケープ=1ダウンにルールを改めることになっております。過激なルールでリングス、Uインターにダメージを与えたパンクラスが、今度は更なる過激な大会に追い詰められることになったのですから皮肉なものです。

さてその後のパンクラスについてなのですが、ジリジリと下降線を辿っては行ったものの、最終的には総合格闘技団体として地道に活動を続けることになります。パンクラス所属の選手はその後プライドにも参戦し、日本人選手の中ではそれなりの実績を残しております。

2013年現在においてもパンクラスは総合格闘技団体として存在しております。
船木は2000年にヒクソン・グレイシーに敗れたことを契機に引退し、その後はタレント活動などをしたもののうまく行かず、2009年には純プロレスラーとして復帰することとなりました。2012年には全日本プロレスの三冠ベルトを巻くほどの活躍をみせております。
鈴木みのるは実力的な衰えを騙し騙し戦っていたのですが、2003年、正式に純プロレスラーとして再出発することとなりました。2013年現在でも、元気にトップ戦線で活躍しているようです。
鈴木みのるのように、総合格闘技で通用しなくなったからプロレスに戻って来て活躍するというパターンは、他にも高山善廣、ボブ・サップなど数多くありますが、そんなことじゃあプロレスは総合格闘技に劣るお遊びリングと見られても当たり前じゃないですか! 総合リタイア組を活躍させたプロレス関係者はそういうことは考えなかったのか・・・本当理解に苦しみます。

以上、大まかな流れが分かるプロレス伝・パンクラス編が終了です。
筆者が最初にパンクラスを見たときの印象は、
「面白いことは面白いんだけど、ファイトスタイルがみんな一緒だな」
ということでした。
それまで筆者が食い入るように見続けていたリングスは、色んなジャンルの格闘家がそれぞれの持ち味を出して戦っているのに対し、パンクラスはみんなが「パンクラス」という名の格闘技をやっているという感じです。パンクラスは「格闘技」としては見ていて大して面白くは無いんだけど、本気のガチだということだけが唯一の見所だと言っても過言ではありませんでした。
それならば、パンクラス以上によりガチな集団が出てきたらパンクラスには何の魅力も無いものとなってしまいます。アルティメット大会の出現と同時にパンクラスが落ち目となったのは必然だったと言えるでしょう。
また、パンクラスというか船木&鈴木を見ていて思ったことは、歴史は繰り返すということですね。理想の団体を追い求めて飛び出してはみたものの、結局、先人たちと同じ苦労を味わうハメとなる・・・芸能界に行くもうまく行かずに結局プロレスラー復帰・・・刎頸の同志が絶縁したと思ったら電撃和解・・・この船木&鈴木とパンクラスの歴史には、過去のプロレス界の歴史が全て凝縮されているとも思えるくらいです。

★リングスの場合

以前にも書いたとおり、筆者はリングスの試合が見ていて一番面白かったと思います。特にコマンドサンボマスター、ヴォルク・ハンVS格闘サイボーグ、ディック・フライの対決は最高でした。フライの打撃をかいくぐってハンが関節技に持ち込む攻防がとにかくスリリングで、打撃マスターと寝技マスターがそれぞれに極めし技をぶつけ合うという理想的な異種格闘技戦が展開されておりました。世界各国のあらゆるジャンルの格闘家が集まり、多彩な技を披露してくれるリングスは本当ワクワクする団体でしたよ。
でもそんな異種格闘技の理想郷・リングスも、エースの前田が怪我で休みがちなうえに前田に続く日本人レスラーが今ひとつ伸び悩んでいることもあって、爆発的な人気を得ることはありませんでした。
それでもリングスは筆者のような格闘技オタに支えられ、WOWOWの強力な支援もあって無難な経営をしておりました。でもそれもやがてアルティメット大会という大波に飲み込まれることになります。
今までに何度も書いたとおり、一度アルティメット大会を見てしまったら、顔面パンチ、パウンド(寝技打撃)無し、ロープエスケープ有りなどという戦いは、もはやヌル過ぎて見ていられないという時代になってしまいました。それに対してリングスは、新たにKOKルール(グラウンドでの顔面パンチ以外は基本何でもOK)を設定して、何とか総合格闘技団体としての体裁を整えて頑張ります。それでもやはり1999年に前田日明が引退すると興業的にかなり厳しい状況となり、リングスは青息吐息な状態となりました。

そんな激ヤバ状態なリングスの息の根を止めに来たのが後述する総合格闘技プロモーションのプライドです。前田日明の格闘家を見る目は確かで、後にプライドで活躍することになるヒョードル、ノゲイラ、オーフレイム、ギルバード・アイブルなどは前田日明が発掘して来たのですが、それをゴッソリ根こそぎプライドの札束攻勢で引き抜かれて行ったのではたまりません。2002年にはWOWOWもリングスから手を引くことになり、ついにリングスは解散に至ったのでありました。

リングスが総合格闘技界にもたらした影響も図り知れません。なにしろ世界各地にリングスネットワークを構築し、各国のあらゆる格闘家が集うリングを用意したのです。

「世界最強の男はリングスが決める!」

このキャッチフレーズは決して誇大広告では無かったかと思います。もっとも後にその世界最強の男を決める大会の座はプライドへと移って行くこととなった訳ではありますが、筆者としてはプライドよりもリングスの方が遥かに上を行く構想だったものと高く評価しております。
でも最後に一つだけ・・・残念ながらリングスが果たして完全ガチの団体だったかどうかには疑問が残るということだけは付け加えておきましょう。第一回リングスメガバトルトーナメントの優勝者がクリス・ドールマンだったことは、初期リングスに多大なる貢献をしてくれたドールマンへの労いだったという説が有力ですし、ヴォルク・ハンのファイトは明らかに、完全ガチではない魅せるプロレス的要素を含んでおりました。(もっともヴォルク・ハンがガチで強い格闘家だったことには疑う余地はありませんが)
前田日明が引退した後のKOKルールとなってからは完全ガチだったようですが、それまでのリングスにおいてはグレーゾーンの部分があったことは事実のようです・・・
なお2013年現在において、前田日明は第二次リングスを立ち上げて総合格闘技のプロデュースを行っております。

★UWFインターナショナルの場合 1994年〜1995年10月9日

一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いだったUインターも、アルティメット大会という黒船が訪れた頃には、マッチメークの行き詰りと通常興業の不振により、資金難に陥る状況となっておりました。そこに輪をかけて、高田延彦がプロ野球ニュースのキャスターを務めたり参院選に出馬して落選したりとプロレスに関する情熱を失っていき、Uインターは益々窮乏化が進んで行ったのです。
そんなUインターの窮状につけいったのが新日本プロレスです。今までのU系団体への恨みを晴らさんとばかりに、Uインターを新日本プロレスのリングに呼び込んでの全面対抗戦をブチあげます。そして新日本プロレスはUインターの足元を見て、8000万円と言われる札束の力を持ってして負けブックを飲ませることに成功したのです。結果、1995年10月9日東京ドームにて、武藤敬司が高田延彦をマット上にひれ伏させたのでありました。

この辺の事情については新日本プロレスの章で改めて書きますが、とにかくこの対抗戦にて、「最強」こそが唯一のアイデンティティと言っても過言では無かった絶対エースの高田延彦が敗れたことにより、Uインターは完全にトドメを刺されて崩壊することになったのです。
高田を除くUインターの残党は新たにキングダムを旗揚げするものの、長続きはしませんでした。その後成功したと言えるのは、後に日本における総合格闘技のエースとなる桜庭和志、総合格闘技とプロレスの二足のわらじで大活躍することとなる高山善廣くらいなものでしょうか。

このUインターの崩壊も、その後の総合格闘技界に多大なる影響を与えております。なにしろ行き場を無くした高田の救済のために立ち上げられたイベントこそが、あのプライドだったのですから。また、それ以前そもそもの段階で後述する事件・・・Uインターの中堅選手であった安生洋二がブラジルのグレイシー柔術道場に道場破りに行き、グレイシー柔術最強の男、ヒクソン・グレイシーにボコボコにされるという惨劇が無ければ、ヒクソン・グレイシーが日本に来ることも無ければプライドなどというイベントも立ち上がらなかったのかもしれないのですから。

Uインターの話題性はとにかく凄かったです。1億円トーナメント構想やリングス、新日本に対する挑発は紛れもないガチだったので、見ているこっちがこんなにヤバいことやって大丈夫なのかと本気で心配するほどでした。また、試合内容にしても、高田とオブライト、ベイダーとの戦いはU系スタイルのプロレスとしては最高峰の面白いものでしたし、高田のカリスマ性もなかなかなものでした。
Uインターは確かに一度、天下を取った団体でした。最後に高田延彦が散ることになった新日本プロレスとの対抗戦が、東京ドーム史上最高の観客動員数を記録する興業となったことがそれを証明していると言えるでしょう。(後にその記録はアントニオ猪木引退興行に塗り替えられることになりましたが)


 第9話へと続く


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