第9話 プロレス第3次黄金時代

★新日本プロレスの全盛 1992年頃〜

坂口&長州体制になってからの新日本プロレスは、手堅く順調に業績を伸ばして行きました。以前にも書いたとおり、G−1クライマックスやベストオブスーパージュニア、天龍率いるWAR、反選手界同盟との抗争などの企画がヒットし、年に3回程度のドーム大会も定着します。そんな順風満帆な新日本プロレスを一挙に借金地獄に突き落としたのが、またしてもアントニオ猪木の功名心でした。
当時まだ国会議員だった猪木は、政治的パフォーマンスを兼ねて、北朝鮮での平和の祭典をブチあげます。このイベントは猪木プロデュースとは言ったものの、金銭負担的には新日本プロレスの自主興行のような形となりました。結果、平壌にて19万人を動員する一大スペクタルイベントとして大成功することにはなったのですが、そこはいかんせん北朝鮮での話です。新日本プロレスはこのイベントに費やした資金を回収することが出来ず、8000万円もの負債を背負うことになったのです。
なお余談ですが、この北朝鮮での平和の祭典において佐々木健介、北斗晶カップルが誕生しております。なんでも健介が北斗に一目惚れして日本に帰って速攻プロポーズしたのを、これまた北斗も速攻快諾したとのこと。新日本プロレスにとっては悪夢だったこの平和の祭典ですが、こんな恩恵を受けた人たちもいたのでありました。

「おいおいどうするんだよこの借金・・・」

坂口と長州が顔を真っ青にしていたところに降って湧いてでたのがUWFインターナショナルとの対抗戦の話でした。当時の筆者は、どーせまたいつものUインター的なビッグマウス舌戦になるだけだろと思っていたら、

「10月9日に東京ドームを抑えたぞ! この日にUを消す!」

長州の口からこんな言葉が出てきたのだから腰を抜かしそうになりましたよ。
北朝鮮平和の祭典が1995年4月29、30日のこと。それから新日本プロレスはすぐさま5月3日に福岡ドーム大会を行っております。また、当時の新日本プロレスは毎年1月4日に東京ドーム大会を行うのが恒例となっておりましたので、まさか10月9日なんてハンパな時期に、こんなスピード決済でドーム大会を決定するなんてことは通常ではあり得ないことだったのですよ。
当時のプロレスファンの歓喜と盛り上がりはそれはもうハンパではありませんでした。8月発表開催2カ月後などという異例のドーム興業が決定し、それもその対抗戦は超因縁含みの新日vsUインターです。そりゃあ盛り上がらない訳がありません。プロレスファンのボルテージはいやがおうにも上昇し、10月9日当日には、6万7千人が集まる空前絶後の大ヒット興業となったのでありました。それも殆どが招待券含まずの実券販売、しかも当日券もバカスカ売れたために興行収益も莫大なものとなったのです。
さて新日本vsUインター全面対抗戦を打ちだしたこの興業では、文字通りに全試合が新日本勢vsUインター勢の対戦カードのみとなりました。結果は新日本の5勝3敗の勝ち越しとなったのですが、全体での勝ち負けは大した話ではありません。本当に重要だったのは大将戦・武藤敬司vs高田延彦の一戦だけです。この頂上対決において、絶対エース・高田がプロレスラー・武藤に足四の字固めという古典的なプロレス技によるギブアップ負けを喫したことにより、プロレスファンの間ではこの対抗戦は新日本プロレスの完全勝利であると決定着けられてしまったのです。

「前田が泣いているぞ!」

とは花道を引きあげる高田が浴びたヤジですが、これは高田の負けが高田個人の敗北にあらず、即ちUWFというイデオロギーが敗れたという現れでありました。
新日本プロレスの現場監督兼マッチメーカーだった長州は、この対抗戦において「Uを消す」と発言しておりましたが、それが現実のものとなったのでした。

この対抗戦と、それに続く一連の新日vsUインター関連興業で新日本プロレスは莫大な収益をあげ、北朝鮮平和の祭典で負った借金を一気に返済することが出来ました。これは逆に言うと、もしも北朝鮮平和の祭典が無かったら、この新日vsUインターの対抗戦など実現しなかったのかもしれないということです。アントニオ猪木というか新日本プロレスという団体は、本当に逆境をチャンスに返る底力を持った団体だと実感させられますね。
また、Uインター高田延彦に完全勝利を収めたことによって新日本プロレスの興業人気も高まり、これから新日本プロレスは第二次黄金期を迎えることになります。
一方、絶対エースを倒されたUインターの看板と権威はガタ落ちとなりました。高田は新日本プロレス内で武藤へのリベンジロードを歩むブックを飲まざるを得なくなり、完全に新日本プロレスに取り込まれた形となってしまいます。また、残された高山、安生などのメンバーだけでは到底単独でUインターの興業を成り立たせることは出来ませんでした。
こうしてUWFインターナショナルも消え去ってしまったのです。

その後の新日本プロレスは、第三次プロレス全盛期と言ってもいい栄華を極めることになります。特にアメリカのWCWをも巻き込んだnWoは一大ブームを引き起こし、1990年代後半の新日本プロレスは、左ウチワで笑いが止まらなかったことでしょう。
このまま行けばプロレスはゴールデンタイムのTV中継も復活し、プロレス黄金期が訪れるのではないか? 当時はマジでプロレス界全体にそれくらいの勢いがあったように記憶しております。それがまさか、あのように没落して行くだろうとは誰が予想しえたことだったでしょう・・・

★全日本プロレス〜プロレスリング・ノア 四天王プロレス最盛期 1994年頃〜

「みんな格闘技に走るので、私プロレスを独占させていただきます。」

UWFが勃発し、やがて3団体に別れて格闘技系プロレスがもてはやされた時、ジャイアント馬場はなんら動じることなくこう言い放ちました。(と言ってもこのキャッチコピーは週刊プロレス編集長・ターザン山本が考えたもののようですが)
馬場全日本プロレスはこの言葉通り、三沢、川田、小橋、田上の全日四天王に、スタン・ハンセン、テリー・ゴディ、スティーブ・ウィリアムスと言った外国人を加え、プロレスの王道をひた走ったのです。
全日本プロレスの提唱した王道プロレスとは、お互いが全力を尽くし、全てのワザをぶつけ合い受け合うというものでした。双方一歩も引かず、チョップもラリアートもジャーマンもパワーボムも真っ向から受け合うその全日本スタイルは、よくもまあ死人が出ないものだと呆れかえるくらいすざまじかったです。ウィリアムスの殺人バックドロップ4連発を喰らってもカウント2.9で返す小橋健太はマジで人間じゃねえと思いましたよ。
当時の全日本プロレスは、競技としてのプロレスというものを極め尽くしたと言っても過言ではありませんでした。最強という言葉とはまた別次元の話で、全日本プロレスの王道プロレスは、世間一般に対してプロレスの凄みというものを余すとこなく伝え切ったのではないかと思います。

さて一見すると常に安定手堅い経営で着実に財産を蓄えて行ったようなイメージのあるジャイアント馬場ですが、実のところ全日本プロレスは、この四天王全盛時代が来るまでは、外人選手に対するギャラの高騰で赤字タレ流し状態でした。そもそもなぜ全日本プロレスの社長が馬場ではなく日本テレビからの出向者が勤めていたのかと言えば、外人依存赤字体質の全日本プロレスの経営再建のためだったのですから・・・でもこの四天王全盛時代に全日本プロレスの人気は爆発的となり、巨万の富はこの時に築かれることとなったのです。
1999年1月31日、巨星・ジャイアント馬場は大腸がんにて帰らぬ人となってしまいました。61歳での死はまだ早すぎたようにも思えますが、その後訪れることとなるプロレス界の崩壊期を見ることもなく、全日本プロレスが全盛期のままに天国に旅立った馬場さんは幸せだったのかもしれません。もっとも逆に、馬場さんさえ生きていれば、アルティメットの大波を防ぎ、アントニオ猪木の暴走を食い止め、プロレス界の未来はまた違ったものになっていたのではないかと考える識者も多いです。一見すれば完全鎖国主義で他団体のことなど我関せぬに見えた馬場さんでしたが、実のところは「馬場さんだけは本気で怒らせてはいけない!」と皆に思われる、プロレス界全体に睨みを利かせる存在だったのでした。

馬場さん亡き後、全日本プロレスの王道路線は、三沢光晴が新たに独立旗揚げしたプロレスリング・ノアに受け継がれることとなりました。2000年代前半、総合格闘技など我関せずに「プロレス」を極めたノアは、アントニオ猪木に揺さぶられ迷走することになる新日本プロレスを尻目にマット界の盟主に躍り出ることになります。
三沢独立の原因は、経営方針を巡ってのジャイアント馬場夫人・馬場元子さんとの確執からでした。三沢が独立旗揚げを計画すると、全日本プロレスの大半の選手が三沢に付いて行くことになり、結果、全日本プロレスには川田利明と渕正信の二人しか残りませんでした。ちなみに川田はノア旗揚げのその日まで、誰からもその話を聞かされることは無かったそうです(^^;


 第10話へと続く


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