第10話 総合格闘技の日本上陸

★UFCジャパンオープン 1994年、1995年

さてプロレスの話が一段落したとろで、再び格闘系の方に話を戻します。第一回アルティメット大会においてホイス・グレイシーの名が日本の格闘技ファンに知れ渡ったのは1993年11月のこと。その後、1994年3月にアメリカにおいて第二回アルティメット大会が開催され、ホイス・グレイシーが2回連続の優勝を飾ります。なおこの第二回大会には、日本からも大道塾なる総合系の流派から市原なる格闘家が出場していたのですが、ホイスの前に全くイイとこ無しに沈没しておりました。その時のVTRもすぐさま日本に入って来て、日本の格闘技ファンは改めてホイスの強さにため息をついたのでありました。
でも当時はまだ、このアルティメット大会のことはコアなU系団体ファンの間でのみ話題になっていただけで、一般的なプロレスファンの間には、何でもアリな凄い格闘技大会が存在するという事実はさほど浸透してはいませんでした。一部のファンやジャーナリストは、いつかこのアルティメット大会に日本のプロレス界全体が喰われる日が来るなと予見してはいたものの、多くのファンやプロレス関係者はアルティメット大会のことをそれほど重視はしていなかったのです。でもそんなアルティメット大会がなんと!1994年7月に日本に上陸することになったのです。
この大会はUFCジャパンオープンと呼ばれ、佐山聡率いる修斗(シューティングから発展して行った団体)の主催で行われています。このUFCジャパンオープンは流石に本家アルティメット大会ほど何でもアリでは無いものの、その違いはリングが金網八角形ではなく通常のボクシングリングであること、素手ではなくてオープンフィンガーグローブであることの二つくらいなものであり、本家のルールをほぼそのまま再現しております。

ええっ!日本でもそんなに凄ヤバい大会が開かれるの!?・・・と話題になるかと思いきや、実際のところこの大会の注目度は極めて低く、一部のコアなU系及び格闘技ファンの間で話題になっていただけでした。今話題のグレイシー柔術のヒクソン・グレイシー初来日とは言ったものの、名だたる日本人選手の出場は無かったのですから仕方の無いことでしょう。修斗だのサブミッションアーツレスリングだのと言ったマイナー団体の選手ばかりの出場では今ひとつ話題に上がらないのも無理はありません。
さてこの事実を見ても、「ごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いのか決めればイイんや!」というのがそんなに簡単な話ではないことが分かります。どんなに凄いルールの大会をやろうとも、それで注目度が集まるかどうかと言えば全く話は別だし、注目度が低ければ金にもならないからと名だたる格闘家を引っ張って来ることも出来ないのですから。
この第1回UFCジャパンオープンでは、大方の予想通り、あのホイス・グレイシーを持ってして「兄は自分の100倍強い」と言わせしめたヒクソン・グレイシーが圧倒的な強さで優勝することとなりました。で、それに対して日本のU系プロレスファンが抱いた感想と言えば・・・

「この程度だったら、橋本や高田と言った格闘思考の強いトップクラスなら勝てるかも?  実際にやってみなければ何ともいえないけど・・・今回の出場選手みたいなマイナー所じゃなくて、U系団体あるいは新日のエース級とやって欲しいよなあ」

という意見が大勢的で、ヒクソンあるいはホイスとトップ所のレスラーが戦ったらどっちが強いか?という空想議論で盛り上がることになりました。それでも筆者の当時の記憶を思い起こすと、レスラー優位と思っていたファンもかなりいたように思えます。
そんなこんなでU幻想グレイシー幻想が入り混じり、様々な議論がなされるプロレス・格闘技ファンの下に、またもグレイシー柔術絡みの衝撃ニュースが流れてきたのは1994年7月、UFCジャパンから3カ月後のことでした。

UWFインターナショナルの安生洋二、グレイシーの道場破りに行ってヒクソンにフルボッコの返り討ちにされる!

安生と言えば当時、Uインターにおいてはナンバー3くらいのポジションにいるレスラーでした。トップでは無いとは言え、現役バリバリのU系レスラーがグレイシーの餌食になったのですから大変です。これがもし安生がヒクソンをボコボコにして来たという話だったら問題はありませんでした。なんだグレイシーなんて大したこと無かったんだなとなって、U系三団体は安心してそれまで通り、最強だなんだと名乗ることが許されていたことでしょう。
でも現実は逆だったがために、早いところ誰かがホイスかヒクソンを倒さないことには、団体そのもののアイデンティティーに関わる大問題となってしまったのです。
なお、なぜ安生がそのような暴挙に出たかと言えば、当時経営が苦しくなっていたUインターが、グレイシー相手にUインターの試合への出場交渉をしていたのですが、それがなかなかうまくまとまらずにシビレを切らしての行動だったという説が有力です。また、安生の実力は決して中堅所などではなく、レスラー間においてはむしろガチではトップクラスの実力との定評だったそうです。エースの高田にしても、安生だったら万一グレイシーと戦うことになっても大丈夫だろうと思ったからこそ、グレイシー道場へと送り出したのですから。

ヒクソン・グレイシーが2回目の来日を果たしたのは、安生事件からおおよそ1年後のことでした。この第2回UFCジャパンではリングスにおいて頭角を現しつつあった山本宜久が出場しておりますが、(筆者は山本のことはあまり評価しておりませんが)あえなくヒクソンの前に撃沈しております。もちろんヒクソンが優勝したことは言うまでもありません。
筆者もこの第2回UFCジャパンのVTRは見ましたが、やはりヒクソンの実力は圧倒的でした。グレイシーとレスラーが戦ったらどっちが強いか? 筆者としてはレスラーの方がヤバいだろうなとは思いましたが、それでもやはり、実際にやってみないことには何とも言えないというのが正直な感想でしたね。
イイから早くU系か新日のトップ所の誰かがホイスかヒクソンと戦ってハッキリ白黒つけてくれ! これが当時のプロレスファンの切実悲壮たる想いでした。

★プライド 1997年10月11日

ホイス・グレイシーがシャムロックを倒してから4年、安生がヒクソン・グレイシーにボコられてから2年の時を経て、ようやくU系レスラーのトップとグレイシーのトップが対決する日がやって来ました。
細かい裏事情は詳しく書きませんが、本拠地のUインターが新日本プロレスに駆逐されて居場所の無くなった高田に花舞台を作ってやろうと企画されたのが、このプライドにおける高田延彦vsヒクソン・グレイシーです。なお、プライドのルールは先に行われたUFCジャパンとほぼ同じ、ボクシングリングにおいてオープンフィンガーグローブ着用のうえで噛みつき、金的、眼つぶし以外は基本何でもありみたいな感じです。
残念ながら、筆者は安生道場破り事件からプライドまでの間の格闘技界に関する記憶は殆どありません。当時はUインターと新日本プロレスの対抗戦が白熱していたことは覚えておりますし、リングス、パンクラスのビデオも相変わらず見ていたはずです。それでもやはり、本物のアルティメット大会を見てからは少し物足りなさを感じてはいたんだろうなとは思うのですが・・・
そうそう、本家アルティメット大会(UFC)の方は、あまりに内容が凄惨すぎると各所から突き上げを喰らったようで、その活動は5回大会頃を境に停滞気味となっておりました。アルティメット大会の上位常連選手となっていたシャムロックにしても、

「もう素手で相手の顔面をボコボコ殴るようなことはしたくない!」

みたいなことを発言しておりましたしね。
ちなみにホイス・グレイシーはその後、2回4回大会でも優勝を収め(3回大会は途中棄権)5回大会においてはシャムロックと引き分けドローを演じております。また、パトリック・スミス、キモ、ダン・スバーン、ジェイソン・デルーシアなどアルティメット戦士の何人かがK−1、パンクラスなどに出場来日しておりますが、それほど目ぼしい活躍はしておりません。(ダン・スバーンはUインター出場経験あり)
そんな宙ぶらりん状態の格闘技界に飛び込んで来たビッグサプライズがこのプライド開催だったのです。

という訳でこのプライドは、発表当初から超注目度を集めた久々のド級イベントとなりました。筆者もスカパーを録画して、ほぼリアルタイムでこの試合を見たのですが、結果は残念ながら高田の完敗。これにてグレイシー柔術とプロレスラー、どっちが強いか?の結論は完全に出たと言ってもイイでしょう。
もっとも、アントニオ猪木はこの試合について、

「よりによって一番弱いヤツが出て行った!」

などとコメントしておりましたし、前田日明も、

「高田がやられたんなら俺が敵を取ってやる」

みたいなコメントを出しており、プロレス界としては決して高田は最強のプロレスラーという訳では無かったというような流れに持って行こうとしていたように思えます。
ちなみにこの前田のコメントに対して、安生が

「いつまでも高田さんを自分より格下の子分扱いしているんじゃねえ!」

と不快感をあらわにするコメントを残しております。
新日本との対抗戦で光を失ったとはいえ、一時期はガチ系最強クラスのレスラーと思われていた高田が敗れたことは、プロレス格闘技ファンの間では、完全にプロレス弱しグレイシー強しを決定つけることとなりました。

★その後のプライドとプロレス界 1998年〜

当初は一回こっきりで終わるはずだったプライドでしたが、なんのかんのでその後も継続開催されることになりました。1998年3月に開催された第2回プライドでは、それほどの目玉カードはなく、あえて言うならホイラー・グレイシー、ヘンゾ・グレイシーと言ったグレイシーファミリーの二番手クラスが出てきたくらいなものだったにも関わらず、キャパシティ1万人クラスの横浜アリーナが満員になるほどの大盛況となりました。また、第3回プライドでは高田の復活マッチが組まれ、微妙な相手だったとはいえ勝利を収め、ヒクソンへの再戦に向けて弾みを付けることになります。
そして迎えた1998年10月11日・・・ヒクソンにやられた屈辱の日からちょうど一年後、東京ドームにてプライド4、高田vsヒクソンのリベンジマッチが組まれることになったのですが、またしても高田は惨敗することになります。ココまで来るとさすがにもう総合格闘技におけるプロレスラー優位論を唱えるものはいなくなり、ついにプロレス側も本腰を入れて総合格闘技で結果を出すか、あるいは開き直って負けを認め、総合格闘技から一切手を引くかどうかの決断を迫られることになりました。

まずノアについては早々に総合格闘技とは一切交わらないことを宣言します。今のまま何の準備もせずにノアのレスラーが総合格闘技に参戦しても勝ち星を上げられないことを素直に認めたうえで、そもそもプロレスと総合格闘技は全くの別モノなんだから比べること自体ナンセンスというスタンスを貫いたのです。実際のところ、ノアの投げっぱなしジャーマンやパワーボムを連発するカウント2.9プロレスは、ガチだのヤオだのを論じること自体おこがましくなるようなハードさでしたから、ノアは総合格闘技から逃げたなどと揶揄されることはありませんでした。

プロレスファンはノアのこの姿勢を支持し、ノアこそがプロレスの王道を守る純プロレス団体として認められることになりました。後述しますが、後にノアと全く逆方向の対応をした新日本プロレスが迷走することになり、ノアは一時期、マット界の盟主に躍り出ることにもなったのです。

次にU系団体についてなのですが、リングスはそれまでのリングスルールをよりプライドに近付けたKOKルールを採用することにより、なんとか総合格闘技団体としての体裁を整えようとしました。でも以前にリングスの章で書いたとおり、せっかくイイ選手を引っ張って来てもプライド陣営の札束攻勢でゴッソリ選手を引き抜かれることにより崩壊するに至ります。パンクラスについてはもはやプライドに選手を送り出す下部団体のようになってしまいました。

最後に新日本プロレスについてなのですが、団体内の姿勢を統一することが出来ずに迷走することになります。かたや純プロレスを守ろうとしているのかと思えば、総合格闘技の世界に討って出て結果を出してこようという姿勢も見せたり、とにかく迷走という言葉がピッタリの動きを見せることになりました。
新日本プロレスが窮地に陥るとき・・・そこには必ずあの大きな幻影が現れるのです、そう、アントニオ猪木という名の巨大な影が・・・・


 第11話へと続く


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