第11話 新日本プロレス崩壊の予兆

★UFOと小川直也 1997年〜

さて話はプライドで高田vsヒクソンが決定した頃まで遡りますが、当時、猪木は佐山聡と組んで新格闘技連合UFOというものを設立しておりました。1998年4月4日東京ドームにてプロレスラーとしては正式に引退し、本気で新格闘技連合をプロデュースして一旗上げようとしたのです。
もっとも、このUFOとは一体なんだったのかということについては、正直筆者にもうまく説明できません。それくらい訳の分からないものだったので・・・思いっきり簡単にまとめてみると・・・
国会議員の肩書を無くして以来、アントニオ猪木は再び新日本プロレスに舞い戻って団体を自由に操りたいと思っておりました。でも当時新日本をまとめていた坂口・長州ラインがそれをキッチリガードし、猪木の介入を阻止していたのですが、猪木はそれが面白くありません。

「俺が作った団体なのに・・・筆頭株主は俺なのに・・・新日本プロレスは俺のものだろう!」

でもそんな猪木の言いなりになっていては新日本プロレスは滅茶苦茶になるだろうというのが新日本プロレス関係者の共通認識でした。それに当時の新日本プロレスはnWoジャパン全盛期の一番儲かっている時期で、ますます猪木離れが進んでいたのです。
そこで猪木が新日本プロレスへの当てつけのように作ったのがUFOだったのではないかと思われます。
もっともUFOとかなんとか言ってみたものの、所詮それは新日本プロレス内の格闘技部門程度の扱いだったようですが・・・それでも猪木はこのUFOを足がかりに再び新日本プロレスを牛耳れる自信を持っておりました。それはリーサルウェーポンたりうる小川直也の獲得に成功していたからです。

小川と言えばオリンピックでは銀メダルしか獲得していないものの、(いや銀でも十分凄いですが)柔道世界選手権無差別級での3連覇を含む優勝4回、全日本柔道選手権での優勝7回というバケモノです。年齢もまだ29歳と脂も乗り切っており、総合格闘技にも討って出れる逸材と、猪木は自らの野望を満たすことの出来るリーサルウェーポンとして小川に大きな期待をしていたのです。
小川は超大物だけあって、1997年4月、新日本プロレスの東京ドーム大会にて当時IWGP王者だった橋本真也を破るという破格のデビュー戦を飾ることとなりました。でも新日本プロレスの現場監督の長州力は、確かに小川は将来のエース候補たりうる逸材ではあるが、「プロレスラー」としての動きはまだまだなってはいないと判断したのです。UFO所属とはなっていた小川でしたが、その後は新日本プロレスの道場にて長州力が鍛えることになったのです。
結果、長州は、小川を基礎から徹底的に鍛えなおすことにしたのですが、このことが新日本プロレス・・・いやプロレス界全体、格闘技界全体にとんでもない台風を巻き起こすことになったのです。
長州としては良かれと思って小川の改造へと取り組んだのですが、そのトレーニング内容はと言えば、かつて柔道の世界において頂点を極めた男にとってはかなり屈辱的な内容だったとのことです。もっともこれは、長州がアマレス出身であるがために、その他の格闘家を冷遇する傾向があるというのも大きいのですが・・・
こうして小川は長州に対して恨みの感情を抱くことになり、結局は猪木佐山コンビの下に戻って行くことになったのでありました。
さてココで一つ疑問なのですが、何故小川は最初から最後まで猪木佐山に鍛えられることにならず、途中で長州の下に行くことになったのか? 残念ながら当時の資料を読み返してみてもよくわかりません。おそらくは期待の逸材を新日本サイドと猪木サイドが取りあいをしていたのではないかと思われますが・・・とにかく、小川は猪木と坂口の対立の狭間において翻弄されてしまったのであろうとは推測されます。

猪木は焦っておりました。自分が新日本プロレスへの影響力を失ってしまうこともそうですが、それ以上に猪木はプライド、総合格闘技の侵攻に恐怖していたのです。

「このままではプロレス界は危ない! 今のままの新日本じゃあダメだ! 俺が作った新日本プロレスが何も分かって無い連中に潰されたんじゃあたまらねえ!」

そのように考えた猪木は、小川を新日本プロレスに対する刺客として放ち、新日本プロレスに格闘技路線を取り入れさせて活性化しようとしたのです。まずは小川をUFO代表の使者として新日本プロレス・坂口征二代表の下を訪問させ、因縁をふっかけさせたのですが、これに坂口征二が激怒してしまったのです。

「事前に何の話も通さずにこんな無礼なことを仕掛けてくるなんて!! 猪木さんは一体何を考えているんだ!!」

猪木としては小川と坂口の間での遺恨を煽ることによって、新日本プロレス軍団vsUFO軍団に発展させるアングルを考えておりました。でも新日本プロレス全体を預かる坂口の立場としてみれば、そもそもUFO自体が新日本プロレスの興行的ライバル足り得ると考えていたのです。なのでUFO単体の活動に対する新日本プロレスとしての支援には消極的で、これがまた猪木にしてみれば面白くないという悪循環となってしまったのです。そんな状況下で何の打ち合わせも無しにこんなアングルを仕掛けられたのでは坂口が激怒したのも無理はありません。
当時の新日ファンの間でも、これは正規のアングルではなくガチだという見解が大勢的でした。それくらい当時の猪木と新日本プロレスの間は険悪だったのです。そんな不穏な空気の中で、1999年1月4日新日本プロレス東京ドーム大会において、猪木の強権発動で小川vs橋本というカードが組まれたのですから、これがタダで済む訳はありませんでした。

★暴走王小川直也誕生 1999年1月4日

1994年1月4日、'99 WRESTLING WORLD in 闘強導夢・第8試合、花道を駆けて来てリングインした小川直也は最初から何処かヘンでした。それまでの柔道体型からは見違えた、見事にシェイプアップされたシャープなボディもそうですが、それより何よりおかしかったのはそのイっちゃってそうな目付きです。それまでの小川は、いかにも人が良さそうなニイちゃんと言った感じでした。そんなトッポい小川だったのが、このときはトンじゃってる目で橋本を挑発しているのです。それは一種異様な光景でした。
実際のところ、この小川vs橋本はメイン2つ前に組まれていることでも分かるとおり、それほど興行的に重視されているカードではありませんでした。(ちなみにメインイベントは、スコット・ノートンvs武藤敬司のIWGP戦)でもこのヤバそうな空気をプンプン発する小川を見た瞬間、これはタダでは済まない凄い試合になるのではないか? ブラウン管ごしに見ていた筆者にも、会場の不穏な空気が伝わって来ました。何しろ小川は花道入場途中の橋本にマイクで挑発をブチかましているのですから・・・花道を駆け上がるシーンというのはレスラーに取ってみれば自分一人がスポットライトを浴びることが出来るという一つの大きな晴れ舞台な訳です。その見せ場を邪魔するというのは、それだけで大きなタブーなのですよ。
ゴングが鳴ると、小川は橋本にガチのキックとパンチをガンガンとブチ込んで行きます。それに対して橋本は殆ど何の手出しも出来ず、一方的に小川が橋本をボコる展開となりました。結果は橋本がフラフラの半KO状態になったところでノーコンテスト。素人目に見てもガチなことが伝わる不穏試合となったのでした。

その後はUFO軍団と新日本プロレス勢が入り乱れる大乱闘となったのですが、これまた素人目にみてもガチの乱闘だと分かるヤバいものでした。なにしろUFO軍団の一員である村上和成は、一時昏睡状態となるほどの重体となったのですから・・・ちなみにこのとき、UFO軍団は第1回アルティメット大会準優勝の経歴を持つケンカ屋、ジェラルド・ゴルドーを用心棒的に引き連れてきていたのですが、乱闘中にゴルドーに手を出そうとした新日本勢は一人もおりませんでした(^^; なさけねえな新日本勢(><)

こうして猪木UFOは新日本プロレスに対し、対抗戦アングルに無理矢理引き込むことに成功しました。前述したように当時の新日本プロレスは人気売上最盛期です。でも猪木の目からすれば、いかに儲かっているとはいえ現在の新日本プロレスは自分が築いた「ストロングスタイル」を捨てて泥を塗り続けているようにしかみえません。この1999年1月4日東京ドームにて、大仁田厚の参戦を許したのも猪木の逆鱗に触れたとも言われております。

「新日本ファンの皆さま、目を覚ましてくださいっ!」

橋本を倒した小川がリング上で叫んだこのマイクアピールは、アントニオ猪木の叫びだったと言えるでしょう。
でも実際、結果として猪木の主張も決して間違っていた訳ではありません。当時はプライドとK−1がジワジワとプロレス界の足元に火を着け始めていたのですから。プライドやK−1のような殺伐とした本気の戦いを見せなくてはいつかプロレス界は喰われてしまう! 猪木の焦りをよそに、坂口や長州がプライドとK−1を甘く見ていたこともこれまた事実だったのですから。
そうそう、肝心なことを書いてはおりませんでしたが、この小川橋本戦、見ていて決して面白いというような内容ではありませんでした。本気の試合なんだから、血肉わき上がる凄い試合になるのかと言えばそんなことは全くありません。確かに、新日本勢とUFO軍団の間に流れた不穏で殺伐とした空気には凄い緊張感が溢れておりましたが、お互いの信頼関係の無いゴツゴツしたぶつかり合いなど、決して見ていて面白いものなんかではありません。

★橋本真也の独立 2000年

1999.1.4小川橋本戦において、一番ワリを喰ってしまったのは、言うまでもなく橋本真也本人です。でもだからと言って、新日本のレスラーたちが橋本に同情していたかどうかと言えば決してそんなことはありませんでした。
そもそも橋本は当時、現場監督の長州とはマッチメークをめぐって抜き差しならぬ状態で対立しており、小川戦が組まれた時点では完全に長州派に干されていたような状況でしたから。何しろこの橋本潰しには長州の意向も噛んでいたという説もあるくらいですし・・・それに闘魂三銃士の下にいた天山広吉、永田裕志、中西学などからすれば、トップが一人減ればそれだけ自分が上に昇って行ける訳でしたから、むしろ橋本にはこのままフェードアウトして欲しいと思っていたのではないでしょうか。
実際それから後に橋本は、小川と再戦するもまたしても負けブックを飲まされることになり、2000年4月7日にはテレビ朝日で放映された

「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」

において、マジで負けて引退させられるハメとなってしまいました。
もっともこれは、長州と対立する橋本が、新日本プロレスの団体内での独立を果たそうと動いていたのが、それを後から知った長州が激怒して潰してしまったという側面というか真相も隠れています。また、もともとは橋本の勝ちブックだったのを、試合当日になって猪木の強権発動で小川の勝ちに変更されたという話も伝わっております。
当初、橋本の団体内独立は円満に行く予定だったようです。それが土壇場でポシャってしまったのは、UFO騒動でも分かるとおり当時の新日本プロレス内部がそれだけゴタゴタしていたということです。それでも結局は無理矢理新団体ゼロワンを旗揚げすることになり、橋本と志を共にした長州に干された組が集まることになったのでした。

今にして思えば、こんな内ゲバをやっていたのも新日本がダメになった一因というか元々ダメだったってことなんでしょうね。だって当時の橋本と言えば、IWGP9回連続防衛記録を保持する、新日本プロレスの「強さの象徴」だったのですから。そんな破壊王と呼ばれた橋本真也を簡単に潰してしまった猪木も猪木なら、ざまあみろイイ気味だと思っていた新日本のレスラーもレスラーです。新日本プロレスの内部には、「強さの象徴」の崩壊が、そのまま新日本プロレスの崩壊につながると考えていた人はいなかったのでしょうかね・・・

なおその後の橋本真也率いるゼロワンについてなのですが、新日本プロレス本隊、ノアなどと交流しながら活動を続けてそれなりの盛り上がりを見せるものの、資金的には苦しい経営を強いられることとなりました。
金の問題が人間関係に亀裂を作るのはプロレス界というか人の世の定めのようなものです。資金繰りに行き詰ったゼロワンは内部分裂を起こし、結果2004年の11月に橋本が一人で全負債を被って解散することとなりました。そしてそのおおよそ一年後の2005年7月11日、橋本真也は脳幹出血で急死することとなります。原因は不明ですが、団体運営に関するストレスが祟っていたことは間違いないでしょう。

思えば小川との対戦により全ての運命が狂ってしまったかに思える橋本ですが、なんと!その後、小川直也とは和解し、二人の間に真の友情が芽生えたというのですから人の運命とは数奇なものです。全力を尽くして闘った者同士にしか分からない何かというものがあるのでしょうね。2005年12月31日大晦日、プライド男祭りにおいて、小川直也が橋本のテーマ曲・爆勝宣言をバックに入場するシーンには、本当涙が出そうになりました。
また、橋本が全ての責任を被った形で解散したゼロワンですが、その後まもなく大谷信二郎を中心とした新ゼロワンが立ち上げられて、2013年現在も地道に活動しているようです。(正式には旧がZERO−ONE、新はZERO1)2011年にはこのZERO1にて橋本真也の息子、橋本大地が破壊王二世としてデビューしております。

★1999年8月 藤波社長誕生、小川直也との抗争 2000年〜

さて橋本真也が去ることになったとは言え、それで新日本プロレスと小川直也の因縁が解消された訳ではありません。それでも正直なところ坂口や長州はもうこれ以上、小川とは関わりたくはありませんでした。それを見越した猪木はついに、坂口&長州に新日本プロレスを任せておいては新日本プロレスがダメになる! そう思って1999年8月、筆頭株主権限を行使して坂口社長を解任し、自分の思い通りにコントロールできる藤波辰爾を社長に添えることにしたのです。
藤波と言えば後にコンニャクドラゴンと揶揄されるほどの猪木のイエスマンです。これは数年後の話になりますが、なにしろ自分の社長解任をスポーツ新聞で知ったそうなのですから・・・

それまでなんとか猪木の介入を阻止していた坂口でしたが、名誉職の会長に祭り上げられてしまったのではどうにもできません。猪木は自分の思いのままに、タッグながらも長州と小川の対戦、佐々木健介と小川のシングルマッチをブチあげます。新日ファンからすれば、これはアングルではないガチの遺恨対決なんだから凄い試合になるだろうと期待しておりましたし、アントニオ猪木としても、プライドを凌駕する真に殺気に満ち溢れた試合を期待してこんなマッチメークをした訳なのですが、その結果はプロレスファンも猪木もガッカリさせることになったのです。
長州vs小川、健介vs小川についてはどのようなブックが書かれていたかは不明ですが、これまた小川橋本戦のような意味不明な後味の悪い試合となり、どちらも観客が暴動を起こす寸前となるような尻切れトンボとなってしまったのでありました。

この一連の小川との抗争関連の不透明さが新日ファンをガッカリさせて、人気低落の一因となったことは間違いありません。ストロングスタイルだ何だと言ったところで、新日本プロレスはプライドやK−1と違って中途半端なことしか出来ないんだなとの印象を決定付けることになったのです。
そうそう、小川関連のみならず、猪木は本物の遺恨のある橋本vs長州もマッチメークしております。これまた消化不良のゴツゴツした不完全決着になりファンをガッカリさせたのでありました。このときの、藤波が突如リングインしての不可解な引き分け裁定は、ドラゴンストップと呼ばれております。
もっとも長州は橋本のことをプロレスラーとしてはかなり高く評価していたようです。武藤と蝶野のことは「武藤」「蝶野」と呼ぶのに対し、橋本のことは親しみを込めて「チンタ」と呼んでおりました。・・・が、橋本としてはその「チンタ」という呼び方が非常に気に入らなかったようで、橋本の長州嫌いはそんな些細なところからも原因がもたらされていたのでありました。そういえば、UWFインターの仕掛け人・宮戸優光は、前田日明からいつまで経っても「新弟子」と呼ばれていたことがガマンならなかったようで、そのことが第二次UWF解散後にUWFが三派に分裂したことの大きな要因の一つだったと安生洋二が語っているところであります。人間、名前の呼び方を少し違えただけでこうもプライドを傷付けられ、怒りの原動力にされるのかと思うと本当怖いものですね


★藤田和之の野望 2000年〜

1999年1月4日以降、小川直也はプライドにも出場して活躍することとなり、一躍スターダムにのし上がっておりました。その小川の台頭を見て、大いなる野望を抱いくことになった一人の中堅レスラーがおりました。

「このまま会社の言われるままにレスラーを続けたところで、俺に未来はあるのだろうか? トップには武藤さんや蝶野さん、その下には佐々木健介、直近には永田さんや中西さんと上はまだまだ詰まっている。これじゃあ俺はいつまで経っても中堅レスラーのままだ。でも小川みたいにガチの世界で結果を出せば俺は一躍トップに躍り出ることが出来る! 俺はガチでやったら新日本プロレス内で一番強いんだ! そんな俺が中堅レスラーで終わるなんてありえねえ!」

当時、ガチでの実力は新日本内最強レベルと目されながら、上がつかえているために中堅所に甘んじていた藤田和之は30歳そこそこ。まだまだ先はあれども、うかうかしてはいられない年齢です。このまま新日本プロレスにいてもお先真っ暗というのなら、一度清水の舞台から飛び降りてやろうと総合格闘技の世界に進出することを決断したのです。
また、総合格闘技の世界に打って出たいアントニオ猪木としては、藤田のようにガチでの実力がありながら現在の新日本プロレスに不満を抱いているような人材を喉から手が出るほど欲しがっておりました。そこで両者の思惑が一致して、藤田は猪木の庇護の下に総合格闘技デビューを果たすことになったのです。

その後、藤田はプライドに出場するなどして順調に実績を重ね、一躍ガチ最強プロレスラー的な地位を築くことになりました。総合格闘技に打って出て一気に飛び級してやろうとの藤田の野望は見事達成されたのでありました。
この藤田大躍進の軌跡を後から振り返ってみると、藤田の行動とその結果は、間違い無く新日本プロレス低落の大きな一因を担っていたんだな思わざるを得ません。
藤田の行動は新日本プロレスにどのような影響を与えたのか? それは後述するプライドとアントニオ猪木の動きで明らかとしていきます。


 第12話へと続く


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