第13話 落日の新日本プロレス

★新日本プロレスを変えた男、藤田和之 2000年〜

それでは話を再び新日本プロレスに戻します。
プライド、猪木プロデュースの格闘技イベントなどで結果を出した藤田は、堂々と新日本プロレスに凱旋することになりました。猪木的には、IWGPとは一番強い者が巻くべきベルトとの考えなので、今現在最強と目される藤田こそがIWGP王者に相応しいと、IWGP王者・佐々木健介への挑戦をブチあげます。
でもこの猪木の強権発動に対し、現場のアレルギーは相当なものでした。藤田としては、並み居る先輩をゴボウ抜きにしようと結果を出して来た訳なのですが、実際追い抜かれようとする先輩レスラー達からすればたまったものではありません。それに何より現場監督の長州力が不快感を示していたのは、確かに藤田はガチでは強いのかもしれないけれど、「プロレス」はまるでヘタクソだったことなのです。なればこそ、藤田は中堅所で甘んじていたという側面もあったのですから・・・
現場サイドとしては、佐々木健介が藤田とのタイトル戦の前にスコット・ノートンに敗れてIWGP王座を転落させることによって藤田のIWGP戴冠を阻止しようとしたりと悪あがきをしたりもしたのですが、2001年8月、藤田はスコット・ノートンを破ってIWGPのベルトを巻くことになりました。
ちなみにこの時の、タイトル戦前にもありながら失冠してしまった佐々木健介の藤田に対する

「正直スマンカッタ」

という発言は、その裏事情を知り尽くしたプロレスファンの間において失笑を買い、迷言として大流行いたしました。

こうして藤田の飛び級の野望は見事に達成されることになったのです。藤田のバックにいた猪木にしても、これで名実共に最強のIWGP王者が誕生し、新日本プロレスのIWGP王者が総合格闘技界でも結果を出して行けば、
「新日本プロレスこそが最強であると証明できる!もう新日本のヤツらにガタガタ言わせねえ!」
そのように考えたのですが、この藤田のIWGP王者戴冠こそが亡国の道への第一歩だったのです・・・
それにしても、一番「強い」者がベルトを巻くことに拒否反応がおこるって・・・いったいIWGPのベルトって一体なんなんでしょうね? チャンピオンってのは一体、何のチャンピオンなんでしょうね?

さて藤田の履こうとしたプロレスと総合格闘技の二足のワラジ・・・言うのは簡単なれどそれを実行するのはそんなに簡単なことではありません。藤田は総合格闘技の試合もこなしているために、通常の新日本プロレスの興業には殆ど参加することがありませんでした。
チャンピオンが参加していないのでは今ひとつ興業が盛り上がりません。プロレス興行とは通常、地方でのサーキットでストーリーを作りながらボルテージを上げて行き、シリーズ最終戦を大会場でのビッグマッチで行って決着をつけるというのが一般的なパターンです。でもそれが、地方でのサーキットに一切参加していなチャンピオンがビッグマッチにのみ参加するというのでは、通常の地方興業の意味合いがまるで失われてしまいます。これでは観客のみならず、一生懸命地方回りをしているレスラー達のモチベーションがガタ落ちしてしまうのも無理は無いでしょう。
興業におけるストーリー性の問題もそうですが、藤田にはもう一つ致命的な欠陥がありました。それは肝心のプロレスがヘタクソであるということです。どう見ても床を打ちつけているヒザ蹴り、締め落としたはずの相手に体をモミモミされて慌てて締めをほどくという不器用さ・・・その他どこがどうヘタなのかを文章で表わすのは難しいですが、とにかく藤田の試合はゴツゴツしていて面白みがありません。
また、表情の作り方、感情の出し方も不器用で、感情移入もし辛いですし、「プロレスの」エースとして藤田は明らかに失格だったのです。
そういえば表情感情の点はともかく、猪木のもう一人の弟子、小川直也もプロレスはヘタクソでした。アントニオ猪木という人は、自身はプロレスの天才であっても師匠としてはまるでダメだったようですね。
この藤田のサクセスロードと以前に書いた小川直也絡みのゴタゴタにより、新日本プロレスの興行におけるストーリーは、ガタガタとなって行ったのです。

★惨敗! 永田裕志 2001年12月31日

新日本プロレスの通常興業がどうなろうが、猪木は最強のチャンピオンが誕生したことに満足しておりました。2001年8月19日、猪木はK−1主催の総合格闘技イベントに藤田を参戦させ、いよいよ総合格闘技界の制覇を目論みます。でもこのK-1 ANDY MEMORIAL 2001こそが、これから新日本プロレスを巻き込んで行く転落ストーリーにも係わる、全ての因果の始まりとなってしまったのです。

このイベントにおいて、総合格闘技の世界に打って出ようとする石井館長と猪木の利害が一致してK−1と猪木軍団の対抗戦がマッチメークされ、藤田はミルコ・クロコップと対戦することになりました。後に総合格闘技3強の一人にしてプロレスハンターの異名をとることになるミルコ・クロコップですが、この時はまだトップの壁を破りきることの出来ない2番手所の存在でした。藤田はそんなクロコップと対戦することになったのですが、これはもう言って見れば藤田の箔付けのためのクロコップかませ犬マッチという位置付けだったのです。そもそもK−1軍団総帥の石井館長自身ですらも、これはあくまで総合格闘技進出へのとっかかりくらいにしか考えていなかったのですから。
だがフタを開けてみると、結果は藤田のTKO負けという大番狂わせとなってしまったのです。後のミルコの快進撃を見れば順当な結果のように見えますが、当時にしてみればこれは思いっきり予想外の結果でした。
もっとも試合内容自体は、むしろ藤田の勝ちと言えなくもありませんでした。タックルに行った藤田のこめかみにミルコのキックがかすって大流血したのをレフェリーがドクターストップをかけたのですが、当の藤田自身はさしてダメージを負ってはいなかったのです。ようやくクロコップを捕まえて寝技に持ち込み、さあこれからどう仕留めるかという場面でのレフェリーストップだったのですから。
と言う訳で、この藤田の敗戦自体は実はそれほど重要なことではありません。問題は藤田がミルコ・クロコップを過小評価してしまったことと、その後のトレーニングで大怪我を負ってしまったことだったのです。

この一戦で負けはしたものの、総合格闘技に対する自信を益々深めた藤田は、ミルコへのリベンジを念頭に猛トレーニングを始めます。でも総合格闘技とプロレスの二足のワラジは藤田の体を着実に疲労させ、ついに藤田はアキレス腱断絶という大怪我を負ってしまったのです。
この藤田の大怪我によって、猪木と新日本プロレスの今後の興業プランは大きく狂ってしまいました。まず猪木軍団についてなのですが、猪木は2001年の大晦日に猪木軍団vsK−1軍団のゴールデンタイムTV進出を計画していたのです。猪木軍団の大将には藤田を添えるつもりだったのが、このアクシデントにより急遽、永田裕志が抜擢されることになったのです。猪木は永田vsミルコ・クロコップをブチあげ、新日本プロレス&藤田のリベンジマッチとして興業の目玉に添えようとしたのでした。
当時の永田は、闘魂三銃士の次の世代のエース候補として頭角を現していた新日本プロレスのトップ所であり、総合格闘系の適正もあると目されていたのです。それでも新日本プロレス&永田は、なんのかんので総合格闘技の世界は未知の領域であり、万一負けたときのリスクを考えて出場を躊躇しておりました。でもそんな永田は、実際にミルコと戦った藤田の一言で、打倒ミルコを決意するに至ったのです。

「ミルコなんて捕まえちまえば大したことないっすよ! 永田先輩なら絶対行けますって!」

永田とて全日本大学グレコローマンレスリング選手権優勝の経歴を持つツワモノです。腕に自信が無い訳ではありません。そんな永田が同じくアマレス出身の後輩からこのようなことを言われたのでは黙ってはいられないでしょう。
こうして訪れた運命の2001年12月31日INOKI BOM-BA-YE 2001、ゴールデンタイム地上波生中継という大晴れの舞台において、永田は1R21秒KO負けという無様な姿を晒すことになってしまったのです。
なにしろ新日本プロレスのエース格が、全国お茶の間の真ん前で、何の言い訳もきかない一方的なボロ負けをしてしまったのです。この一件が新日本プロレスに与えたダメージは図り知れなかったことでしょう。プロレスファンのみならず、世間一般に対しても、

「ああ、プロレスラーって本当は弱かったんだな」

というイメージを定着させることになってしまったのですから。
もっとも新日本プロレス本体は、この事実を案外軽く受け止めていたフシがあります。というのはその後の永田の扱いを見れば分かります。
永田は年明けてすぐの2002年1月4日東京ドーム大会にて何事も無かったようにメインを張っております。また、4月にはIWGP王者となり、そのまま防衛を重ねてIWGP10連覇という新日本プロレス新記録を打ち立てたのですから・・・
もしも新日本プロレスがこの永田完全KO負けの事実を重く受け止めていたとしたら、こんなことはしていないと思います。すぐさま他の選手にリベンジさせるか、あるいは永田自身に総合格闘技の世界で結果を出すまで戻って来るな!としていたことでしょう。
にも関わらず永田にそのような花を持たせた理由・・・それもおおよそ明らかになっております。一つはこのころ新日本プロレスを飛び出していた橋本真也の持つIWGP9連覇の記録をそのままにしておけなかったこと、もう一つは猪木の強権で総合格闘技進出を無理強いさせられた永田に対する慰労だったというのですから呆れて物も言えません。

大晦日に公衆の面前で醜態を晒しておきながら、恥ずかしげもなくIWGP王者として君臨する永田の姿がファンの目にはどのように映るのか・・・新日本プロレス首脳陣は考えなかったのでしょうか? 
それまでは空前絶後の好景気に沸いていた新日本プロレスが、目に見える形で興行収益を落として行ったのは、この2002年頃からでした。もしも藤田がミルコ戦において目尻を切るアクシンデントに見舞われず、なおかつアキレス腱を切る怪我を負わなかったとしたら、永田がミルコと戦うことも無く、新日本プロレスとプライドは共存共栄できていたかもしれません。
また、藤田のケガは新日本プロレスのみならず、ノアの運命をも変えて行ったのです。

★マット界の盟主・ノア

もしも藤田がアキレス腱を怪我していなければ・・・新日本プロレス2002年1.4東京ドームのメインイベントは、藤田vs永田のIWGPタイトルマッチとなるはずでした。藤田が当初の目論見通り8月にミルコを倒しており、12月31日INOKI BOM-BA-YE 2001にも出場して勝ち星をあげていたとしたら、この藤田vs永田は大盛り上がりとなっていたものと予想されます。そんなバラ色の未来が覆されたのですから藤田負傷の影響がいかに大きかったことかと思います。
藤田vs永田に代わるほどのインパクトを持ったカード・・・そうして土壇場で決まったのが、ノアのGHCヘビー級王者、秋山準に永田が挑戦するというプランだったのです。新日本プロレスとしては、背に腹は代えられない状況での秋山へのオファーだっために、そこは当然負けブックを飲まざるを得ません。こうして新日本プロレスは今年1年の決意表明と言っても過言ではない1.4東京ドーム大会のメインイベントを、多団体のタイトルマッチに挑戦者として臨んでそして負けるという、屈辱にまみれたもので飾ったのでした。更にその永田がその3ヶ月後にIWGPヘビー級王者となり、そのまま防衛新記録を打ち立ててしまったのですから、世間一般に
GHCヘビー級王者>>>>IWGPヘビー級王者
と思われても無理のないことでしょう。

その後も新日本プロレスとノアの交流は続くのですが、後述する理由によりマッチメークの主導は常にノアが握ることとなります。ノアのトップ、三沢や小橋、秋山は新日本プロレスに出向く度に白星を貰い、レスラーとしての格、ノアの団体としての格をあげ、新日本プロレスを凌駕する日本プロレスマット界の盟主へと躍り出たのでした。

★ミスター高橋本 2001年12月

ある日筆者が何気なく本屋をウロついていると、「おおっ!なんだこれ!!」と驚かされる凄いタイトルの本が並んでいるのに出くわしました。

「流血の魔術 最強の演技 全てのプロレスはショーである/ミスター高橋」

早速買って家に持ち帰り読んでみたら、その内容の衝撃たるや今までのプロレスに対する見方がガラリ180度変わってしまうビッグバン級の暴露本だったのです。
そもそもプロレスとは真剣勝負なのか八百長なのか? この通称ミスター高橋本が世に出るまでは、この疑問に明確に答えることの出来る人は世間一般にはいなかったのではないかと思われます。プロレスなんて八百長に決まっているだろと言っているプロレス否定派の人はたくさんいれど、その勝敗決定の仕組みまで知っていて言っている訳ではないでしょう。ただなんとなく、プロレスとは胡散臭いインチキなものだと言うイメージで八百長と言っているだけというのが殆どのことだったかと思われます。

かくいう筆者はどうだったのかと言えば、プロレスとはターン性の我慢比べだと思っておりました。流石にガチの勝負でブレーンバスターやロープ攻撃なんかが決まるとは思っておりません。プロレスとは相手のワザをあえて受けなくてはいけないというルールがあって、そのルールにおいて体力が先に尽きた方が負けなんだろうなと思っておりました。また、プロレス否定派についても、通常の試合ではナアナアな八百長をやっていて、タイトルマッチくらいは本気でやっているんだろうなという認識の人が多かったのではないかと思います。
でもミスター高橋本に書いてあった現実は、そんなに生易しいものではありませんでした。その内容を思いっきり簡単に要約すれば、

全てのプロレスの試合は戦う前から勝敗が決まっている。リーグ戦やトーナメント戦、それに追随する優勝者決定戦やタイトルマッチにしても、最初の企画段階からストーリーと結果が決まっている。選手間同士による遺恨、成り上がりと言ったストーリーラインについても全て演技である。

ということです。
筆者はもともと「プロレス」に対してはさしたる思い入れは無かったので、このミスター高橋本を読んだ感想は、

「へ〜そうだったんだ! プロレスの内幕っておもしれー!」

って感じでしたね。単純にプロレスの内幕を知れたことが面白かったのはもちろんですが、それ以外にも、実際に筆者が知っているプロレス界において起こった事件の裏話やエピソードが興味深かったです。

という訳でこのミスター高橋本、筆者にしてみればそうでも無かったのですが、何十年来のコアなプロレスマニアからすれば物凄い大ショックだったようです。実際、筆者をプロレスの世界に誘った兄がそうでしたし、筆者のプロレス友達からも同じような話を聞きました。
ミスター高橋曰く、これは暴露本ではなく、プロレス界の未来のための提言の書だとのことです。確かに総合格闘技の出現によって、プロレスにガチの勝負論を求めることには限界が来ておりました。アメリカのWWFでは完全にプロレスの内幕をカミングアウトしても大成功を収めておりましたし、日本のプロレス界もそれに倣うべきではないかというのがミスター高橋の主張です。もっとも実際のところは、ミスター高橋がレスラーの引退後の受け皿として警備会社を設立しようと提案したのを却下された私怨から暴露本の出版に至ったという説が根強いですが・・・

識者の中には、プロレス人気の凋落とミスター高橋本には殆ど因果関係は無いとの見方をしている人もいます。でもおそらくは、このミスター高橋本を読むことによってプロレスの面白さに目覚めた人と、プロレスを見限って離れて行った人の数を秤にかければ、間違いなく後者の方が多いのではないかと思います。少なくともミスター高橋本がプロレス人気に貢献したということは無いでしょう。
ミスター高橋本がプロレス界に与えた影響がどの程度のものなのかは、正直なところよく分かりません。それでもやはり、プロレス界の内部を完全に暴露してしまった本書のことは、プロレス近代史を語るにおいては避けて通れないトピックスであることは間違いないでしょう。

★武藤全日本の独立  2002年2月

猪木の介入による格闘技路線への傾倒は、新日本プロレス内部に大いなる不満のタネをばらまくことになりました。

「お前らのプロレスには殺気が足りない!とかケチつけて、ガチ勝負をやれ!とか言うけれど、自分だってガチの試合なんてやったことないじゃないか!」

これがレスラー達の総意だったと言えるでしょう。
なるほど確かに、猪木はモハメッド・アリとはガチ勝負をやっております。でも一連の異種格闘技戦については全てブックありきのプロレスでした。(唯一アクラム・ペールワン戦についてはガチだったという話ですが)実際に猪木は殺気だったド迫力の試合を見せてはおりました。特にウィリー・ウィリアムス戦での殺伐とした空気はプライドのそれに決して引けをとることは無かったと思います。
でも所詮それは安全圏で行われている演技であって、総合格闘技における殺気とはまるで話が違います。そんな猪木がレスラーたちにいくら総合格闘技で殺気だった試合をやって来い!と言ったって、まるで説得力が無かったのです。
そんな選手達の不満が爆発してか、2002年2月、新日本プロレスの屋台骨を揺るがす仰天事件が起こったのです。

武藤敬司、その他大量のレスラーとフロントを引き連れて新日本プロレスを離脱、全日本プロレスへ移籍

この武藤全日本離脱の動きについては、裏ネタを集めさせたら他の追随を許さない週刊ファイト編集長・井上譲二を持ってして、寝耳に水だったと言わせしめるほど水面下で進行された仰天移籍ニュースでした。
当時の全日本プロレスはと言えば、所属選手は川田利明、渕正信、太陽ケアのわずか3名で、新日本プロレスとの交流戦でかろうじて食い繋いでいる状況でした。実際、武藤は全日本プロレスの興業にはしょっちゅう参戦しており、三冠ヘビー級王座についたりもしていたのですが、まさか移籍まで考えていたとは誰も夢にも思っていなかったのです。

武藤敬司はこの移籍劇について、

「新日本プロレスの格闘技路線についていけなくなったから。全日本プロレスで理想のプロレスをやりたい」

というようなことを語っております。
もっともこれはタテマエの理由であって、実のところは全日本プロレスの株式を上場することによる一儲けを企んだというのが真相と言われておりますが。
ともあれ、武藤のほかに、小島聡、ケンドー・カシンと言った人気選手と辣腕フロントの青木氏などが離脱したことにより、新日本プロレスの屋台骨が大きく揺らぐことになったのです。
前述の井上譲二編集長は、この武藤離脱こそが新日本プロレス崩壊最大の要因ではないかと語っております。なにしろ武藤はグッズの売上第1位で、小島も常に上位にいたそうです。先には強さの象徴・橋本真也も離脱しておりますし、言って見れば新日本プロレスは武藤、橋本、蝶野のクリーンナップから3番バッター4番バッターがいなくなったようなものなのですから・・・

さてその後の武藤全日本プロレスなのですが、株式上場による儲け話なんてものはもちろんポシャってしまいます。結果、新社長武藤に残されたのは借金まみれの老舗団体だけということになり、言ってみれば馬場元子さんに体よく不良債権の後始末を押し付けられたような形となってしまいました。
武藤が並の三流レスラーだったら、SWS分裂後に出来た団体のような末路を辿ったところでしょう。でも武藤敬司とは、当時のプロレス界において一番と言っても過言では無い超一流のスターレスラーだったのという点が、他のインディー団体とは違いました。全日本プロレスは借金に苦しみながらも、武藤自身に集客力があったので、興行収益と武藤が他団体のリングに上がることによる外貨獲得でなんとか団体を維持できていたのです。
全日本プロレスはその後ギリギリながらも団体存続していたようですが、2013年7月にスポンサー筋を巡るゴタゴタで団体が分裂し、武藤は新たにレッスル1を旗揚げするに至っております。その詳しい経緯については、残念ながらプロレス界の情報収集を止めてしまった筆者にはよく分かりませんが・・・

★更なる離脱劇 WJプロレス 2003年3月

戦力が減って体力が弱った集団というものは、今まで以上に一致団結して再建に励まなければならないものでしょう。でも悲しいかな人の集まりというものは、こういう時にはむしろ内部の犯人探しに躍起になって、より集団の力を低下させて崩壊していくものです。新日本プロレスも正にその例に漏れませんでした。
そもそも全日本プロレスとの交流を画策したのは、フロントの総括責任者とも言える永島勝司でした。永島氏はそれまで長年、猪木あるいは長州の片腕としてUインターとの対抗戦等、数々の仕掛けを打ってヒットさせて来ておりました。この全日本プロレスとの交流戦にしても、これまでに多大な利益をあげていたのです。そうして飛ぶ鳥を落とす勢いで新日本プロレス内を我がもの顔で歩いていた永島氏は、当然社内の妬みの対象にもなっておりました。それが今回の武藤移籍騒動の責任を押し付けられ、詰め腹を切らさせるハメになったのです。
一方もう一人、猪木の現場介入によって居場所を失った新日本プロレス筆頭幹部がおりました。永島氏とのタッグで新日本プロレスに大いなる繁栄をもたらした長州力です。長州もまた現場監督を解任され、肩で風切るマッチメーカーからロートル窓際レスラーへと転落させられていたのです。

「なぜこれまで新日本プロレスのために体を張って、多大なる貢献をしてきたオレが、こうもアッサリ切り捨てられなきゃならないんだ!!! アントニオ猪木には人間的な欠陥がある!!!」

新日本プロレスと猪木への怨念を募らせた永島氏と長州は、佐々木健介、鈴木健想を引き連れて新団体・WJプロレスを旗揚げするに至ったのです。
このWJプロレスですが、後にプロレス史上最大のネタ団体として嘲笑されることになりました。詳しくは永島勝司著の「地獄のアングル」に詳しいところですが、フロントの不手際から発表されていた興業がしょっちゅう中止になったり、タイトルマッチにベルトの制作が間に合わなかったりと、とにかく興業団体としてはあまりにお粗末な痴態をさらけ出して2年と持たずに崩壊することとなったのです。

こうしてまた、新日本プロレスからは佐々木健介、長州力という貴重な戦力が去り、ますます求心力を低下させます。また、WJの崩壊は、更なるインディー団体の乱立を生じさせることになりました。

さて今でこそ芸能界で幅を利かせる佐々木健介ですが、当時は完全に長州の腰ぎんちゃくであり、そして下からの人望は全くありませんでした。(人望は今でもありませんが)長州の出奔と同時にコバンザメだった健介は新日本プロレス内での居場所を失い、親分長州のもとの合流したのでした。
でもそんな蜜月な師弟関係だった長州と健介も、WJ活動期間中に金銭関係でモメることになり、完全に決別することになったのです。仁義無きプロレス界において今までに幾度となく「まさかあの二人が!?」という分裂を見てきた筆者でしたが、さすがにこの長州健介の分裂劇には驚かされました。そしてまさか長州という後ろ盾を失った健介が、鬼嫁北斗のプロデュースによってココまで見事に出世するとは、これまた夢にも思いはしませんでした。何しろ佐々木健介は塩試合を連発するという理由で、プロレスファンからは塩介(エンスケ)と揶揄される存在だったのですから・・・

★新日本プロレスの迷走と土下座外交 2003年〜

猪木と現場サイドの確執はそのままマッチメークにも表れます。かたや猪木プロデュースでアルティメットクラッシュなどという変な総合格闘技イベントが企画されました。これはバトルロイヤルとタッグマッチを足してみたような訳に分からないイベントでした。
一方、蝶野主導でアメリカの超大手団体WWFの大物女子レスラー、ジョーニー・ローラーをリングに上げるなんてこともやっています。いくら大量離脱による戦力不足が深刻だからと言って、女子レスラーを男子レスラーと同じ土俵に立たせるようじゃあストロングスタイルも何もあったものではないでしょう。この頃の新日本プロレスは、80年代後半の猪木迷走時代が可愛く見えるほどの転落期だったと思います。
でもそんな時にあっても攻めの姿勢を崩さないのが良くも悪くも新日本プロレスです。新日本プロレスは団体の威信にかけて、ドーム大会を始めとしたビッグマッチを次々と仕掛けて行きます。とは行ったものの、自前の選手が減ってしまったのだから、マッチメークは他団体との交流戦に頼らざるを得ません。そこでノアの三沢光晴や小橋健太、フリーの高山善廣、あるいはK−1ファイターやボブ・サップなどと言った大物を呼ぶことになるのですが、もちろん彼らはバカではありません。新日本プロレスの内部事情を見透かしたうえで、勝ちブックを要求してくるのです。新日本プロレスとしては、大会場での興業を成功させるためには大物外敵の参戦は必須なので、彼らの要求を飲まざるを得ません。こうして新日本プロレスは、自前のビッグマッチの場において自軍の選手が白星配給係になるという悲惨な状況に陥って行ったのです。

当時のフロント総括、いわゆる「仕掛け人」と呼ばれるポジションには、永島勝司の後を継いだ上井文彦がついておりました。彼の仕掛けたこの外敵優先の外交路線は、土下座外交と揶揄されることになりました。もっともこれは決して上井氏だけの責任とは言えないでしょう。これだけ大幅な戦力ダウンをしながらも、全盛期同様の興業ペースでビッグマッチを打とうと思ったら、現実問題としてそれ以外に道は無かったことでしょう。
そうそう、新日本プロレスの迷走と言えば、2003年12月31日大晦日、永田裕司がプライド最強の男・エメリヤーエンコ・ヒョードル相手にまたもゴールデンタイムTV生中継で無残なKO負けを喫したことも忘れられません。
これは2年前のミルコ戦を無かったことにして純プロレスに勤しんでいた永田を、猪木が強権発動で無理矢理ヒョードル戦をマッチメークしたというものなのですが、その意味するものは二つです。まずは永田というか新日本プロレスが、総合格闘技へのリベンジを果たそうと言う気一切無しに、ナァナァでプロレスを続けようとしたこと。もう一つは猪木の無茶苦茶な介入を阻止することが出来ないということです。
総合格闘技という臭いモノにフタをするという姿勢を貫き通せばまだ話は分かるのですが、結局、猪木の介入で中途半端に総合格闘技に介入して行って無様を晒すというのですから話になりません。
この永田ヒョードル戦は、当時の新日本プロレスのダメな部分を見事にさらけ出した一件と言えるでしょう。
もっとも永田も被害者と言えば被害者です。後に新日本プロレスの現場監督に復帰した長州力から

「天下を取り損ねた男がよく上がって来た」

などと言われてしまった永田ですが、最初からミルコなんかと戦っていなければ、平穏無事に新日本プロレスエースの座を射止めていた可能性は極めて高かったのですから・・・


 最終話へと続く


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