外伝その5 柔道と柔術

1993年、第1回アルティメット大会におけるホイス・グレイシーの優勝により注目を集めることになったグレイシー柔術。その圧倒的ハイレベルな寝技技術を見た日本中のプロレス・格闘技ファンは、世界の果てにはこんなに恐ろしい実戦的格闘技が存在したのか!と舌を巻いたのでした。
その後、プロレスマスコミ等がグレイシー柔術のルーツを調べてみると、次々と衝撃的な事実が明かされることになったのです。最強のグレイシー柔術その創始者はなんと!前田光世という日本人柔道家の弟子だったこと、かつてホイスの父、エリオ・グレイシーが日本人柔道家・木村政彦と戦い敗れた過去があることなどが判明し、プロレス格闘技ファンは大いなる衝撃を受けたのでありました。
当時の筆者もこのような因縁ストーリーに多いに胸を踊らされたものでありましたが、コンデ・コマこと前田光世とは何者か? かつて力道山と戦ったこともある柔道の鬼・木村政彦がどれだけ強かったのか? というところまでは踏み込むことができませんでした。でもそれが最近、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という著書に出会い、グレイシー柔術のルーツ、戦前の日本柔道界のことなどを知るに及び、総合格闘技の源流とは何とも奥深いものなのか、自分は全く何も知らなかったんだということを思い知らされることになったのです。

コンデ・コマこと前田光世という人物のことを知ったとき筆者は、「へ〜大昔にこんなリアル陸奥九十九みたいな変人天才格闘家がいたんだなすげー(><)」みたいな感想を抱いたものですが、コンデ・コマが活躍した1900年頃には、実はコンデ・コマのような人物が他にも結構いたのです。
当時の日本は柔術の全盛期かつ黎明期でした。まだまだ幕末の空気が残る世相においては実戦武道としての柔術が多いに持て囃され、街中には柔術の道場があふれていたそうです。
当時の柔術は現在のグレイシー柔術のように寝技の占めるウェイトが大きく、相手を関節技で極める、締め落とすまで戦うという“まて”も投げ一本も抑え込み一本も無い完全決着ルールが一般的で、高専柔道大会(現在の大学選手権のようなもの)などが実戦柔術の頂点として大人気を博しておりました。
でもそんな実戦的完全決着柔術は“競技”としてのハードルがあまりにも高すぎたため、やがて柔術は講道館を中心に立ち技中心の現代のスポーツ的柔道へと変化していったのです。いつしか柔術は柔道と呼ばれるようにもなりました。もっともこの柔術から柔道への移行は決してスムーズに行った訳ではなく、柔道派と柔術派の熾烈な派閥争いも当然発生しました。そのような柔道・柔術界の流れにおいて、ある者は国内で柔道家あるいは柔術家として活躍し、またある者は海外に活躍の場を求めて行ったのです。前田光世もその海外派の一人で、柔道・柔術の凄さを世界に広めようと、まずはアメリカに渡ってボクサー、レスラーなどと異種格闘技戦を繰り広げ、やがてブラジルに渡って格闘技道場を開くに至ったのでした。
また、現代においてフランスやオランダなどで柔道が盛んなのも、こうした海を渡った無名の柔術家たちによる普及活動が実った結果なのであります。

柔術が柔道に完全に淘汰されたのは、太平洋戦争における日本の敗戦が決定打でした。GHQは実戦的な柔術は日本国民に再び戦意を植え付けることになる危険なものとして排斥し、そんなアメリカの思惑に乗っ取った講道館が、柔道はあくまで武道ではなくスポーツだとGHQにアピールし、スポーツとしての柔道を普及させるに至ったのです。
もっともそれでもまだ古武術としての柔道を捨てない一派という武骨者も残っておりました。その代表こそが「木村の前に木村無し、木村の後に木村無し」と謳われた柔道の鬼・木村政彦です。
木村は戦前の柔道柔術黎明期に無敵の強さを誇った正に鬼とも言える存在でした。でも木村はあまりに武道家として、あるいは人間として純粋すぎたために、組織内でうまく立ち回る政治力というものを全く持っていなかったのです。講道館が組織としての柔道界を統一しようと懸命なこの時期に、木村は人間的な欲望である金と、武道家としての純粋な強さへの欲求のためにブラジルへと渡り、コンデ・コマの末裔である柔術家たちとの興行試合に臨んで行ったのです。
戦前の日本において数々の大会に優勝し、最強柔道家の名をほしいままにしていた木村の名声は、多くの日系人移民を抱えるブラジルにおいても鳴り響いておりました。また、ブラジルに渡った日本人移民はその日本人魂の拠り所として柔術に励んでいる者も多く、実のところブラジルとは柔術大国だったのです。
そんな柔術王国ブラジルにおいて木村の前に立ちはだかったのは、コンデ・コマの直弟子であり、当時ブラジル柔術界で最強と目されたエリオ・グレイシーでした。しかしブラジル最強の男を持ってしても木村の圧倒的強さの前には全くもって歯が立たなかったのです。

さて木村に対する講道館のスタンスなのですが、そもそも柔道家のプロ化には否定的な講道館は木村の存在を疎ましく思い、後に木村が力道山との戦いに敗れるに至り、木村の存在は講道館柔道史から抹殺されるに至ったのです。その後、講道館は組織内の派閥争いに明け暮れ、その柔道もますますスポーツ化が進みます。結果、柔道はもはや武道としての柔術の原型をとどめないJUDOになり下がってしまったのでありました。
一方、木村に負けたエリオ・グレイシーですが、木村の持つ実力と人柄に惚れ込み、木村のような本物の武道家になることを目標に、より一層厳しい修行に励んで行くのでした。やがて木村の魂はエリオを通じてその息子であるホイスとヒクソンに受け継がれ、日本に逆上陸するに至ったのです。


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